濃縮社会を展望する(The Prospect for Condensing Society )
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現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY
 
   このコラムはNECフィールディング株式会社・広報誌「ふぃーるでぃんぐ」(2009年)に連載されたものです。同社に御礼します。


第1回・成長・拡大から成熟・濃縮へ(現代社会研究所所長 古田隆彦)

濃縮社会が来る

二一世紀の日本は人口減少の時代です。さまざまな対策が打たれたとしても、今後五〇年間は間違いなく人口が減っていきます。

このため、日本の社会は、〝拡大〟社会から〝濃縮〟社会へ転換していきます。これまでは、人口増加による労働力と消費力の拡大で、〝成長・拡大〟が続く社会でした。だが、人口が減り始めると、労働力も消費力もともに縮小しますから、次第に〝成熟・濃縮〟型の社会に移行します。

濃縮社会とは、成長・拡大社会が作り出した、さまざまな蓄積を、少なくなっていく人間が巧みに利用する社会です。経済面でいえば、現在のGDP(国内総生産)の規模を維持しつつ、一人当たりのGDPを上げていくことが目標になります。

こうした変化は革命的ですから、初めのうちは社会全体がとまどって、消費を萎縮させます。だが、世の中が慣れてくるにつれて、やがて人々の間にゆとりが生まれ、新たな消費文化を開花させることになります。

同じような濃縮社会を、私たち人類は何度か経験してきました。

濃縮化した中世欧州

中世末期のヨーロッパでは、農業生産の限界化とペストの大流行で、一三四〇年以降、約一五〇年間、人口が低迷しました。そこで、一四世紀後半には終末思想が広がり、一旦は暗い時代となりました。だが、一五世紀半ばになると、次第に落ちつきを取り戻し、政治的にも経済的にも新たな動きが始まります。これに対応して商業活動も活発化し、商人層が華麗な消費文化を生みだしています。

例えば、フランス中東部で生まれた“ブルゴーニュモード”は、それまでの身を包むような衣服を捨てて、身体そのものを極端に誇張する様式を創造しました。女たちは、円錐状の砂糖菓子の形をした帽子「エナン」をかぶり、ドレスの襟を大きくえぐった衣服「デコルテ」を着ました。男どもも、ほとんど尻まるだしの短い胴着、鳥のトサカのような頭巾、爪先が長く鋭く反り返った靴「プレーヌ」などを流行させました。これらのファッションはやがてヨーロッパ各地に波及し、イタリアではさらに華麗なルネサンスモードに発展します。

オランダの文化史家J・ホイジンガによると、「一三五〇年から一四八〇年にかけて流行した衣装髪容(かみかたち)がみせたような度はずれた様相は、すくなくともこれほどまでに一般化し、長期間にわたるものとしては、のちの時代のモードに、二度とみられぬところであった」というほどの変化でした(『中世の秋』)。

江戸中期も濃縮社会だった!

江戸時代中期の日本も、一七三〇年前後から一八〇〇年ころまでは人口減少社会でした。八代将軍吉宗の「享保の改革」から、田沼意次の重商政策を経て、十一代将軍家斎による「化政文化」までの約七〇年間ですが、この時期には、人口減少によるゆとりを活用して学問や文芸が栄え、歌舞伎、浮世絵、戯作などの、新しい町民文化も勃興しました。

とりわけ、田沼意次が政権を握った明和・天明期(一七六四~八九)には、それまでの上方文化に代わる、新しい江戸文化が興隆しました。蔵米を担保にして金融業を営む「札差」を中心に十八人の大通人(十八大通)が出現し、髪形、言葉使い、所作などで「蔵前風」とよばれる、独自の様式を創り上げて、「江戸っ子」の先端に立ちました。

また江戸の遊里からは刺繍入りの着物、曙染めの友禅模様などの流行が生まれました。一方、芝居小屋からは名優の衣装をまねて、水木辰之助の「水木帽子」、上村吉弥の「吉弥結び」、初世沢村宗十郎の「宗十郎頭巾」、さらには小太夫鹿子、市松染、亀屋小紋、仲蔵染などの染め模様が「はりやもの」となりました。

色彩の世界でも、二世瀬川菊之丞の「路考茶」、初世尾上菊五郎の「梅幸茶」、五世岩井半四郎の「岩井茶」など、渋茶、鶯茶、利休鼠、萌葱など〝渋い〟色が流行しています。つまり、当時の町人文化は、表面的な華麗さを「野暮」とみなし、裏側の抑えられた趣向を「粋」「通」「いき」として尊ぶ、成熟した美意識を生み出したのです。

以上のように、ヨーロッパでも日本でも、人口減少時代には、新たな消費文化が興っています。この背景には、①人手不足で市民や町民の所得が上がった、②基本的な必需財が余剰となり選択財への関心が高まった、③選択財の需要増加に対応して関連産業が成長した、など、共通する要因が考えられます。

今後の日本でも、人口減少が定着していくにつれて、新たな消費文化が生まれる可能性が高まります。それらはおそらく、新たなジャパネスクモードとなって、世界中に広がっていくことになるでしょう。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング2009年108号

第2回・生産社会から消費社会へ(現代社会研究所所長 古田隆彦)

消費が生産を主導する

「消費社会」という言葉を近頃よく耳にします。広辞苑をひくと、「消費の領域が拡大して、消費が生産を規定するかに見える社会」と説明されています。

この定義に従えば、人口減少社会は限りなく消費社会に近づいていきます。人口が減れば、食べる人、着る人、住む人も減りますから、間違いなく顧客も減ります。一人の人間が生きていくために絶対に必要な生活必需品の量は、いかに時代が変わろうとさほど変わりませんから、顧客数の減少に比例して、需要もまた減ります。つまり、衣食住などの生活必需品では、市場縮小が急速に進みます。

しかし、国内の生産規模は、労働力が減っても、ITやロボットなどを活用して労働生産性を上げれば、容易に維持できます。そのうえ、急速に工業化しているアジアや中南米などの発展途上国から、工業製品が大量かつ廉価に輸入されてきますから、供給量はなおも増加します。そうなると、人口減少社会は必然的に、供給力が需要力を凌駕する供給過剰社会に移行していきます。

供給過剰が進む社会とは、売り手よりも買い手の立場が有利になる社会です。供給側の力より需要側の力が当然強くなります。生産者側が市場を主導した、これまでの「生産社会」が弱まり、消費者が主導する、本格的な「消費社会」の様相が濃くなってきます。それゆえ、人口減少社会とは、究極の消費社会なのです。

人口波動の後半には・・・

歴史を振り返ると、「生産が消費を主導する生産社会」と「消費が生産を主導する消費社会」は交互に現れてきました。

生産社会が現れるのは、新しい技術や産業の導入によって生産力が順調に増加し、社会全体が拡大基調にある時です。他方、消費社会が現れるのは、生産力が過剰に拡大し、供給量が需要量を追い越した場合や、何らかの理由で需要量が飽和・停滞し、供給過剰となった場合などです。

日本の歴史では、人口の推移に現れたとおり、約三万年前からの石器前波(上限・約三万人)、紀元前一万年前からの石器後波(同・約二六万人)、紀元前五〇〇年からの農業前波(同・約七〇〇万人)、西暦一三〇〇年からの農業後波(同・約三二五〇万人)、そして一八〇〇年頃からの工業現波(同・約一億二七〇〇万人)という、五つの波動が読みとれます。

これら五つの波動において、それぞれの前半には、生産力の拡大が社会をリードする「生産社会」が出現しています。なぜなら、狩猟採集文明や集約農業文明など、新しく開発・導入された文明が社会の生産力を押し広げるにつれ、人口が増え、消費量も増加するという構造が生まれるからです。

だが、後半になると、加速的に拡大する生産力がやがて消費量を追い越したり、あるいは土地、水、食糧など基礎的な資源の制約によって総人口が停滞・減少し始め、供給過剰に陥るケースが現れます。そうなると、消費が生産をリードする「消費社会」の傾向が次第に強まってきます。

選択財が一般化する

具体的にいえば、縄文前~中期、弥生~奈良時代、室町~江戸前期、江戸後期~昭和期などは「人口増加=生産社会」でしたが、縄文後期、平安時代、江戸中期などは「人口減少=消費社会」でした。

とりわけ、江戸時代の享保期から文化・文政期にかけて、人口が減少した約七〇年間は、現代日本以上に過剰な消費社会でした。個人所得の上昇で自給自足を脱した農民や町人が干魚(ほしうお)、綿布、櫛(くし)、簪(かんざし)、印籠(いんろう)、根付(ねつけ)など新たな選択財を求めるようになり、消費市場では「米価安の諸色(選択品)高」が進んでいます。

イギリス(イングランドとウェールズ)でも、人口が停滞した一六三〇~一七三〇年の一〇〇年は、同じような社会でした。歴史学者のJ・サースクによると、当時の社会では「真鍮の料理鍋、上質の亜麻織物、金・銀糸、帽子、ナイフ、レース、ポルタヴィス織、リボン、ひだ襟、石けん、テープなどの消費用品」が、すでに日用品として流通していました。こうした「生活必需品以外の物の製造と販売が恒常的に行われている社会」こそ、まさしく「消費社会」なのです(『消費社会の誕生』)。

とすれば、「消費社会」とは、歴史の進展過程においてしばしば現れる、「生産」よりも「消費」が主導する社会、つまり供給側よりも需要が市場をリードする社会のことです。そう考える時、人口減少が急速に進む,二一世紀前半の日本は、より濃密な消費社会に向かっている、といえるでしょう。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング)2009年109号

第3回・濃縮社会は情報化する (現代社会研究所所長 古田隆彦)

ソフトを重視する社会

人口減少に伴って、世の中の構造は、成長・拡大型から成熟・濃縮型へ次第に移行していきます。それと連動するように、モノよりもコト、物質よりも情報が重視される「情報化」社会の色彩が濃くなるでしょう。

「情報化」というと、一般にはパソコンやインターネットなどが拡大する「IT(情報技術)化」と理解されています。一九八〇年にアメリカの未来学者A・トフラーが『第三の波』という本を書いて、農業革命による第一波、産業革命による第二波に続いて、今や情報化による第三波が進みつつある、と述べました。農業化、工業化の次に現れる、画期的な文明革新が情報化だ、というのですが、この考え方が日本の社会にも広く受け入れられています。

だが、これはあまりにも狭い見方です。歴史的に見ると、社会全体がモノよりもコトを、ハードよりもソフトを重視する時代は、今に始まったことではなく、何度か繰り返されています。情報化という言葉は、もっと広くとらえるべきではないでしょうか。

歴史の中の情報化

長期的な人口推移から見ると、情報化という社会現象は、人口の減少する局面でしばしば出現しています。日本の歴史においても、人口の増減に連動して、広い意味での情報化が四回ほど起こっています。

最初は、旧石器時代後期に現れた細石刃(さいせきじん)です。人口増加期には単一石器の高度化をめざしていた技術は、減少期になると、複数の小石器に基礎的な機能を細かく分散し、それらを組み合わせて、さまざまなモノを作りだす細石刃へ向かいます。ここには、単語よりも文法を重んじようとする〝情報処理〟観念の発達が読みとれます。

二回めは縄文時代後期の火炎型土器です。人口の増えている間、機能的な容器へ向かっていた縄文土器は、減少期に入ると、異様な形をした、重くて扱いにくい容器に変貌します。一見、炎に見えるところから、火炎型とよばれる土器類には、もはや煮炊き用の機能性はなく、祭祀や権威の象徴としての情報性が強く示されています。

三回めは平安時代末期から鎌倉時代初期の絵巻物です。弥生~奈良時代の人口増加期には、水稲、灌漑(かんがい)、開墾、土木、建築などの諸技術が発達しましたが、それが極限に達すると、社会的な関心は絵と詞(ことば)で巧みに表現される情報に移りました。この時期に作られた『源氏物語絵巻』『伴大納言(ばんだいなごん)絵巻』『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)』『鳥獣人物戯画』の四大絵巻は、当時の人々にとって、テレビの出現に匹敵する大事件だったと思われます。

四回めは江戸時代中期の木版や瓦版などです。戦国~江戸時代前期の人口が増加した時代には、巨大な城郭や寺院の建造に注がれていた木材技術が、人口が減り始めると、一転して木版に転換されます。その結果、生み出された浮世絵はもとより、読本(よみほん)、黄表紙(きびょうし)、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本(こっけいぼん)などの出版物は、まさに情報そのものでした。

以上のように、細石刃、火炎型土器、絵巻物、木版は、さまざまな文明が生みだした物質的ツールを巧みに情報的メディアへ置き換えたものです。情報化という現象は、新たな文明というより、一つの物質文明の成熟段階を示している、といえるでしょう。

情報化が次の文明を促す

とすれば、現在の日本で進みつつあるIT化もまた、工業文明が成熟段階に入ったことを意味しています。

今後はIT分野の拡大を基盤にして、モノよりもコト、物質よりも情報がもっと重視されるようになります。例えば、アートとしての自動車、カルチャーとしての炊飯器、レジャーとしての掃除機など、暮らしや社会のあらゆる分野で芸術化、学習化、遊戯化、精神化、象徴化といった文化の多層化、濃縮化が進んでいくでしょう。

こうした情報化の彼方に、かすかに浮かび上がってくるのが次の文明です。「細石刃」の細部で全体を作りあげるという観念の発達が、次の「土器」文明を生みだし、また火炎型土器に象徴される自然環境観の変化が、次の「稲作」文明を受容させました。

絵巻物に代表される国風文化の浸透が、大陸直輸入の「公地公民」制から、大名による「領地領民」制への移行を促して、次の「集約農業」文明を創り、あるいは「木版」の普及が識字率を高めて、次の「科学技術」文明の受容を早めています。

歴史が繰り返してきたように、一つの物質文明の成熟が生みだした情報化は、いずれも次の文明への橋渡しを担っています。そう考える時、現在進展しつつあるIT化もまた、単純に情報の利便性を高めるだけではありません。その延長線上でやがてものの見方を変え、世界観の変革にまで進んでいきます。

世界観が変われば、化石燃料を基盤にした、現在の工業文明が再検討され、新たな文明への足がかりが見えてくるでしょう。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング)2009年110号

第4回・成熟社会のゆくえ・・・「老成」から「若成」へ (現代社会研究所所長 古田隆彦)

ネオテニー化する文化

二〇世紀の末期から「日本文化はネオテニー化している」と指摘する記事や評論が、マスメディアを賑わしています。

ネオテニーというのは、発生生物学の用語で、完全に成熟しきった動物が、未成熟な幼児体質を残している状態をさします。「幼形成熟」と訳されていますが、これを社会現象に当てはめて、「日本文化が今や幼児化している」というのです。

確かに九〇年代以降の日本では、子ども心を保持した大人、あるいは子ども的感性を持った成人が増えています。中年といわれる年齢になっても、通勤電車で携帯ゲーム機に夢中になり、自室に帰ればアニメやゲームに熱中しているおじさんがいます。おばさんたちもまた、キティーのキャラクター商品を手放しませんし、少女コミックの衣装を真似た〝ゴス・ロリ(ゴシック・ロリータ)〟ファッションを流行させています。

いわゆる「オタク」化とよばれる現象ですが、これが趣味や娯楽の世界から、アートやカルチャーの分野にまで広がりはじめています。草間弥生(くさまやよい)、奈良美智(よしとも)、村上隆といったアーティストたちは、マンガ、アニメ、ゲームなどの表現手法を積極的に取り入れて、幼さ、カワイイ、萌えといった心象風景を次々に作品化しています。最近では、ニッポンのニューアートとして、国際的にも大きな注目を集めるようになってきました。

人口減少で年齢呼称も変わる

ネオテニー化はなぜ進むのでしょうか。その背景には、やはり人口減少、つまり少産・長寿化の進行が潜んでいるようです。

長寿化でいえば、平均寿命の延長で、年齢層のよび方が大きく変わってきました。日本人の平均寿命は、二〇〇八年に女性が八六・〇五歳、男性が七九・二九歳になりました。平均寿命は〇歳児の平均余命ですから、六五歳まで生き抜いた人の寿命はさらに延びて、女性は九〇歳、男性は八四歳を超えます。

ここまで寿命が延びると、年齢のよびかたにも変化が現れます。従来は〇~六歳を「幼年」、七~一四歳を「少年」、一五~三〇歳を「青年」、三〇~六四歳を「中年」、六五歳以上を「老年」とよぶのが一般的でした。だが、寿命が一・二~一・三倍に延びた以上、「幼年」は〇~九歳、「少年」は一〇~二四歳、「青年」は二五~四四歳、「中年」は四五~七四歳、「老年」は七五歳以上に、それぞれあげたほうが実態に合います。四〇歳を超えた青年たちが増えるのも、ごく当たり前の現象なのです。

また、このよび方でそれぞれの年齢層に該当する人口を計算すると、二〇〇〇年から二〇一〇年にかけて、「幼年」や「少年」は大幅に減りますが、「青年」は横ばい、「中年」は微増、「老年」は激増と、逆ピラミッド化が進みます。幼年や少年の数は減っても、子ども心を保持した青年や中年層は増えていきますから、それが社会的な圧力となって、世相の幼児化を促すことになります。

人口構造の変化に伴う、こうした量的変動がネオテニー化の直接の原因ではないでしょうか。

子ども化する老人たち

だが、もっと本質的な理由は、人口が増加から減少へと移るにつれて、「成熟」という言葉の意味が変わってきたことです。

人口増加で右肩上がりが続く時代には、新しい文化が次々に生まれ、幾重にも重なっていきます。アーティストたちも必死にそれらを吸収し、年季を積んだうえで、独自の作品を作り上げます。それゆえ、「成熟化」とは、老成した文化を意味していました。

ところが、人口減少で右肩下がりの時代になると、世の中全体が濃縮していきます。新しい文化が起こるよりも、過去の文化への見直し志向や回帰志向が強まります。アーティストたちも一〇代、二〇代で味わった青少年文化をじっと保持したまま、年齢を重ねていきますから、彼らの創造する作品も「若さのままの成熟」を表現することになります。その結果、文化現象は、「老成」から「若成」へ、あるいは「老熟」から「若熟」へ、と移行していくのです。

こうした現象は初めてではありません。同じように人口減少が進んだ江戸時代中期にも、歌人の良寛は五〇代晩期に「霞たつながき春日を子どもらと手毬つきつつこの日くらしつ」と、また俳人の小林一茶も五七歳で「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」と詠んでいます。浮世絵師の葛飾北斎は五五歳から『北斎漫画』を描きはじめました。当時のアーティストたちは、どれほど年齢を重ねても、なお旺盛な童心を保持していたのです。

人口減少社会とか長寿社会というと、つい成熟社会とか老成社会を思い浮かべがちです。しかし、「成熟」とは「老成」ではありません。いくつになっても、なお若々しい「子ども心」を保ち続ける年長者が、次第に増えていくことなのです。「ネオテニー」という言葉も否定的には考えず、むしろ肯定的にとらえるべきでしょう。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング)2009年111号

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