人口減少社会のマーケティング 序章 
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現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY
序章  アウターマーケットからインナーマーケットへ

[心の中のリゾートへ]
 2002年の秋に発売されたユーミン(松任谷由実)のアルバム『ウイングズ・オブ・ウインター、シェーズ・オブ・サマー』は、時代の変化を見事につかんだ作品だ。タイトル曲の「ウイングズ・オブ・ウインター…」では、羽毛のように舞い落ちる雪に再会への希望を託し、「ただわけもなく」では真夏の入道雲に別れた人を追慕する。自信作という「ロデオ」では、荒波に挑戦する少年たちの心を、ポリネシアの神話風に描き出している。
 彼女の公式サイトによると、大ヒット作『サーフ・アンド・スノウ』の続編というコンセプトで、「近未来の精神的リゾート」を歌ったものだという。冬と夏の季節感をテーマにしているのは前作と同じだが、アルバムの中身はリゾート気分を盛り上げるというより、クリスマスやサーフィンなどを素材にして、こまやかな心の動きを追いかけたものが多い。
 1980年に発売された前作は、スキーやサーフィンなど最先端の風俗を歌って、バブル前期のライフスタイルを大きくリードし、夏の湘南、冬の苗場をトレンディーリゾートに仕立て上げた。だが、20年たった今、リゾートの意味は大きく変わった。「リゾートとはもはや具体的な場所をさすのではなく、心の中にあって安らげる気持そのものになった」とユーミンは言う。前作が「アウターリゾートへ出かけよう」だったとすれば、新作は「インナーリゾートでリラックスしよう」なのである。
 デビューして30年、ユーミンの音楽活動には常に、卓抜したマーケティングマインドが感じられる。その最新作が心の深部や古代の神話というインナーへ向い始めているのは、注目すべき変化なのである。

[新たな目標は濃縮型国家]
 今、日本の社会は大きな曲がり角にある。多くの識者が指摘しているような「バブル経済がはじけて、右肩下がりの社会となった」というだけの話ではない。あるいは「明治維新、太平洋戦争に次ぐ、第三の開国期」というだけの認識でもない。もっと大きな変化、つまり約200年間続いてきた人口増加社会が終わり、間もなく人口減少社会が始まるという、大きな転換期にさしかかっているということだ。
 
 人口減少というと、「少子・高齢化」の問題と思われがちだが、そうではない。まして「晩婚化・非婚化」や「出生率の低下」という、ミクロな問題でもない。それは日本の現在にとって、もっと本質的な、もっと根本的な変化を意味している。

 なぜなら、人口減少は日本の現在を最も正確に象徴している現象であるからだ。人口が減っていくのは、本文で詳しく述べるように、実は現代日本が養える人口の規模(人口容量)そのものが限界に達したためである。現代日本は江戸後期以降、西欧型科学技術や近代的市場経済システムを導入して工業生産を高め、海外諸国と積極的に貿易をするという、いわゆる「加工貿易文明」によって、約1億2,700万人の人口を養える国家を作ってきた。ところが、三つの条件のそれぞれに今やさまざまな制約が増えており、この体制を維持、拡大することができなくなっている。
 そうなると、人口は自ずから増加をやめて停滞し、やがて減少に移る。人口が人口容量の壁にぶつかった時、増加から減少に転ずるのは、アミーバーやゾウリムシから鼠や猿に至るまで、あらゆる動物に共通する現象である。人間もまた動物の一種である以上、同じような環境に追い込まれれば、自ずから人口を減らしていく。日本の人口も今、壁にぶつかったがゆえに減り始めている。つまり、人口減少が示唆しているのは加工貿易文明の限界、つまりは西欧型科学技術、近代的市場経済、自由貿易主義を組み合わせた現代日本文明の限界という、よりマクロな現象なのである。
 それゆえ、今後、人口減少が生み出す諸影響は、少子化・高齢化などの次元をはるかに超えて、日本の社会や経済はもとより、文明や文化といったマクロな次元から、生活価値観や生活形態といったミクロな次元まで、あらゆる次元に波及する。言い換えれば、従来の人口増加を前提にした成長・拡大型の構造を根本から覆し、人口減少を前提にした飽和・濃縮型の構造へ向かって五月雨的に移行していく。
 一方、世界的にみると、21世紀の地球では人口爆発、食糧・資源不足、環境悪化のトリレンマが急速に進むから、先進国は率先して人口を減らし、モノの消費を抑制し、廃棄物を減らしていくことが急務になる。そうなると、21世紀の先進国とは、人口増加に裏付けられた20世紀型の成長・拡大型国家ではなく、人口を抑制し、モノの消費も縮小するが、それでもなお一定の生活水準を維持し、心豊かな生活形態を作り出せる国家ということになる。
 とすれば、
 21世紀の日本は、迫り来る人口減少をむしろ絶好のチャンスと考えて、いち早く新たな方向へ踏み出さねばならない。新たな目標となるのは、他の先進国に先駆けて従来の成長至上主義を脱皮した、濃縮型あるいは凝縮型の国家なのである。

[マーケティングの基本が変わる]
 
人口減少で社会や経済がここまで変わる以上、今後は国家次元の社会・経済政策はもとより、企業次元の経営方策や市場戦略、さらには一人ひとりの生活者の生き方やライフスタイルに至るまで、全く新たな角度から見直すことが必要になる。
 当然、マーケティングについても、従来の定説や手法をはるかに超えて、最も基本的な次元から再構築していくことが求められる。
 すでに昨今の日本では、モノが売れなくなっている。「長期不況の原因は消費低迷にある」との声もあるが、なぜ売れないのかといえば、消費の基本的な構造が変わり始めているからだ。
 この厳しい状況に対して、メーカーや流通業など供給側はどんな対策をとったらいいのだろうか。経済学者の中には「供給側が消費者の本当に求めているモノを提供していないからだ」として、今後は「少子化に対応する出産・育児・教育分野や、高齢化に対応する介護・医療分野、人口分布の変動に対応する住宅・都市関連分野や生活サービス関連分野、さらに環境問題に対応する環境対策分野などへ進出すべきだ」との意見が多い。
 確かに今後の人口構造や社会構造を考えると、こうした生活需要が増えてくるのは間違いない。供給側でもまずはこれらの需要に対応した商品やサービスを拡大していくことが必要だろう。あるいは経営組織のうえでこうした分野の強化が急務なのはいうまでもない。
 だが、以上の方策によって当面の消費低迷は突破できたとしても、なおも消費者が減り続け、かつモノを求めなくなる時代を乗り切れるのだろうか。経済学者の需要予測は基本的に現在の生活願望を基準にしており、それが将来とも同じように続くという前提のうえで成り立っている。しかし、そうとは限らない。人口減少時代の生活価値観は増加時代とは大きく変わっていくはずだ。

[ブランド戦略を超えて]
 とすれば、もう一つ、人口減少時代の消費者がどんな生活願望を抱き、どんなライフスタイルを展開するかを予測したうえで、全く新たな視点からモノやサービスの需要予測をおこなうことが必要になる。

 それには、経済学的なマクロな理論や方法を超えて、個々の消費者の心理の襞にまできめ細かく到達できるような、ミクロな理論や方法を創造しなければならない。
 こうした方向は本来、マーケティング関係者が担当すべきものだが、残念ながら現在の彼らにはこうした問題意識すらない。彼らの関心はほとんどアメリカ直輸入のブランドマーケティングに向かっており、商品ブランドから企業ブランドまで、ブランド戦略論だけでデフレが乗り切れるかのように思っている。
 なるほど、ブランドに代表される記号化戦略は、モノの需要が飽和した現在、なおも売り上げを維持し拡大していく、有力な戦略の一つである。さらに二一世紀のトリレンマの時代になると、人口を増やさず、食料やモノをできるだけ使わず、かつ環境負荷の少ないライフスタイルが望ましいから、商品についても、できるだけモノの消費は抑えることが望まれる。その時、売り上げをなお維持していくには、モノの上にサービスや情報などを載せねばならない。一番手っ取り早いのは、カラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなどの記号を載せて、付加価値を高めていくことだろう。
 とりわけ、ブランドは「商標」という"記号"が地位、階級、権威などを示す価値構造を持っているから、モノそのものよりも記号を重視し、自分の判断よりも社会的な権威を優先しようとするユーザーにとっては、かっこうの消費対象となる。ブランドファンの多くは、すでにできあがったセレブリティーやステータスに近づきたいと、特定のマークを追い求めるのだ。
 しかし、ブランド戦略にも限界がある。一つは記号の消費があくまでも外向的、表層的なものである以上、いくら手に入れても、それで満足することはない、ということだ。新たなブランドやより強力なブランドが現れれば、すぐにそれらが欲しくなる。「それこそがブランド戦略の利点なのだ」という声もあろうが、ユーザーにとっては、たとえ上流階級やトレンドリーダーのモノマネはできたとしても、本物の満足には到底至らない。ブランド消費では、心の底から癒されたり、安らげることは決してないのだ。
 もう1つは、記号のネウチが他の記号との「差異」にある以上、差異がなくなればネウチもなくなるということだ。このため、供給側は絶えず新しい差異を創り出して、提供し続けなければならない。それができさえすれば、たとえモノの需要が飽和に達しても、確かにモノは売れ続ける。だが、その一方で新しい記号は絶えず従来の記号を古くしてしまうから、まだまだ使えるモノでも廃棄物にしてしまう。結局のところ、資源・環境問題が拡大する二一世紀には、むしろ逆行する手法になってしまう。

[インナーマーケティングを提唱する]
 ブランド戦略に限界があるとすれば、他にどんな対応があるのだろうか。それを従来のマーケティングに求めてもまず無理だろう。これまでの行動心理学的な欲求段階説やシステム科学的な消費願望分析の程度では、成熟段階に至った消費者の心理を予測することなどほとんど不可能だからである。
 そうなると、これはもう消費願望を根本的に把握する次元から、新たな理論と方法を開発するしかない。過去から現在へ、現在から将来へと、未来を広く見通せるような生活願望の把握理論を構築し、それに基づいて新たな願望の発生する分野を予測することが必要になる。一例をあげれば、モノの上に「記号」に代わるものとして、参加、体感、官能などの心理的表象、つまり「象徴」を重ねる手法が考えられる。「象徴」の定義については後で詳しく述べるが、人間がさまざまな感覚でモノそのものを体感した時に感じる、最も素朴な観念のことである。言い換えれば、「記号」が意識的、社会的に固定化した表象であるのに対し、「象徴」は無意識的、個人的に感じる表象なのである。
 こうした方向の可能性を確かめるため、本書では全く新しいマーケティングを提案したい。つまり、
20世紀に蓄積された現代思想の、最良の成果をできるだけ取り入れて、より全体的な生活願望理論を構築し、それに基づいて過去から現在までの願望の動きを見定め、そのうえで今後の拡大方向を展望していく。この手法によって、まずは生活願望の今後を予測し、続いてモノやサービスのネウチの変化を予見し、最後にこれらに対応した、新しいマーケティング戦略の方向を展望しようというのだ。

 もしこれが成功すれば、どこまでも外側に拡大する生活願望によって形成された、従来の「外部市場」だけでなく、むしろ心の内側に広がっていく願望によって新たに形成される「内部市場」のゆくえが奥深く発見できるはずだ。従来のマーケティングがアウターマーケットに対応するものであったとすれば、このマーケティングはインナーマーケットという新しい沃野に向かって、大胆に踏み込んでゆくものだ、と言ってもいい。
 
 その意味で、この方法は、従来の「アウターマーケティング」に対し、「インナーマーケティング」とでも呼ぶべきであろう。

[自分の居場所で寛ぐ]
 インナーマーケットなどと言うと、なにやら宗教じみてくるが、実を言うと、消費市場の最先端ではすでにこうした需要が広がりつつある。拡大するブランド消費のすぐ裏側では、温泉ブームからファンタジーブームまで、表層的な記号よりも体感的な愉楽や心理的な癒しを求める需要が広がっている。あるいは外向的な権威よりも自分だけのマイブームを求める需要もまた拡大しつつある。
 とりわけ音楽市場では、すでにこうした動きが広がっている。自分の居場所を強く求める宇多田ヒカルや、自閉的・自己愛的な浜崎あゆみのミーイズム系はもとより、元ちとせの「ワダツミの木」や一青窈の「もらい泣き」といった癒し系も、多くのファンをつかみ始めている。ここには、権威的なブランド志向を脱し、より身近な自癒(セルフヒーリング) へと向かい始めた、時代のトレンドが読み取れる。
 とすれば、ブランド戦略のその先に。"記号"よりも"体感"を"権威"よりも"自足"を、つまりは外交的な"価値"よりも内向的な"効用"を重視する、新たな対応を考えねばならない。さらには両者の接点として、ブランド消費の対極にある"セルフヒーリング"といった商品やサービスを、早急に用意することが必要になる。
 ユーミンの新作は、こうしたインナーマーケットに向けて、ミーイズムとヒーリングのクロスするインナーリゾートを提案することで、積極的に対応しようとしている。もっとも、彼女のあまりにも知的すぎる発想や大人向けの洗練された歌詞が、ますます幼稚化するファン層には受け入れられないのでは、との一脈の危惧は残る。だが、たとえそうだったとしても、ユーミンの触覚が時代のゆくえをつかまえている、という事実はもはや疑うべくもないだろう。

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