現代思想研究室・週刊東洋経済書評
TOP INDEX
現代社会研究所 RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY  

この研究室では、現代思想や社会・人文科学の基礎的研究をしています。古田隆彦が寄稿した書評を転載します。
週刊東洋経済・書評(1996〜2000)



H・S・デント著 門田美鈴訳『2000年 資本主義社会の未来』PHP週刊東洋経済,2000,5,20)

 〈われわれは「狂乱の二〇年代」以来のもっともエキサイティングな好景気を迎えようとしている。私はこれを「狂乱の二〇〇〇年代」と呼びたい〉と著者はいう。
 一九二〇年代とは、車、電話、ラジオ、家電製品、映画、コカコーラなどが出現して主流の商品となり、不可欠の消費財となった時代。だが、今後一〇年間には、情報革命という空前の技術革新に、史上最大のベビーブーマーの経済活動が絶頂期が達するという、二大トレンドが重なるから、二〇年代以上の大好況が訪れる、ということだ。
 著者の予測手法は、人口と世代の増減が経済や社会を動かすという、次の三つの法則に基づいている。第一は、米国のベビーブーマー家族の世帯主の支出が四六〜四七歳でピークに達すると、二六〜二九年間は好況を持続させるものの、その後の一二〜一四年間は不況をもたらす。
 第二は四〇年毎に、企業家精神に富む個人主義的な世代と、系統立ったマネジメントで新方式や新技術を大衆化する順応主義的な世代が交互に出現するから、二世代ごとに経済革命が起きる。
 第三はよりマクロに、五世紀ごとに起こる人口の大爆発が周期的な変革と進歩の波を起こす、という三つだ。
 これらを重ねると、二〇〇九年ごろにベビーブーマーの波が支出のピークを作るから、ダウは最低でも二万一五〇〇ドル、最高三万五〇〇〇ドルにまで達する。同時に情報革命の進展で、経済構造も「規格化した経済」から「カスタム化経済」へ移行する。
 カスタム化経済とは、個人向けの顧客サービスや職人芸の温かさを求める需要が拡大するため、供給側でも顧客重視の精神が高まって、小規模で精神的な作業チームが復活し、創造的な右脳思考による技能がさらに重視されようになるという経済構造。
 そこで、企業組織もネットワーク型のブラウザ・サーバー方式、つまり顧客のニーズに直接応える前衛の社員と、彼らに特定の製品や知識を供給する後衛社員のネットワークで構成される方式に変わる。この組織では、従来の一元的な左脳的職務の大半をコンピューターが引き受けるから、社員は直観的洞察とより創造的な右脳思考を追求することができるようになる。
 こうして米国経済は絶頂に達するが、ベビーブーマーの経済活動が二〇〇九年以降低下し始めると、米国はやがて欧州や日本に追い越される。とりわけ、日本経済は、米国に二十年先行するベビーブームの影響で二〇〇八年ごろまでは停滞するものの、二〇〇九年以降は再び急上昇する、と予測している。
 本書の読み所は、人口や世代の動向が、経済や社会の変化要因であることを的確に指摘したうえで、それに対応するための企業組織、人材育成、経営戦略の方向を具体的に示した点だろう。
 だが、「私のあみ出した確かな予測手法」と著者が自負する方法は、米国優先の単純な進歩史観、ロジスティック曲線による技術進歩観、マズロー理論による労働意欲の段階的発展説など、極めて通俗的な思想に基づいており、欧州や日本の予測家にとってはすでに過去のパラダイムだ。それゆえ、二〇〇九年以降の日米逆転の予測は大きく外れ、まったく別の形を辿る可能性がある。(現代社会研究所所長・古田隆彦)

山口昌男著『敗者学のすすめ』岩波書店週刊東洋経済,2000,4,22)

 <日本の近代はどうしてこんなにおかしくなっちゃったのか>と著者は自問し、<一体、どこでボタンをかけ違えたのか>と、その要因を薩長藩閥政府の成立に求める。
 <薩長が藩閥政府をつくってから近代日本というものがおかしく>なった。だから、<今の省庁の惨憺たる有り様などを見ていると、薩長のつくったピラミッドにしがみつこうとした日本人のメンタリティーそのものが拒否され>たことになる、という。
 では、どこからやり直すべきなのか。現在を<薩長的なピラミッド型社会からネットワーク型社会へ>の転換期と考える著者は、近代日本において負けた側の人間の生き方や、彼らの作った横の繋がりを、もっと知るべきだ、と提案する。
 確かに、これまでの歴史学や人文・社会科学には、敗者の研究がほとんどない。<戦後日本の社会は負けた人間のもつ可能性というものを、何も追求していない>が、それは<薩長を中心にした富国強兵の歴史ばかり書いてきたから>だ。結局、<日本の近代史のパラダイムは無意識のうちに勝者を中心に作り上げられ、敗者の役割りを見つめ直す視点はあまり見当たらないで今日に至っている>のだ。
 そこで、著者は『「挫折」の昭和史』から『「敗者」の精神史』へと、近代日本の負の側面を書き継いできたが、これらの周辺として、最近十年間に新聞や雑誌に発表したエッセイ、対談、書評をまとめたものが本書だ。その意味では“間奏曲”といったところだが、博覧強記の碩学のことゆえ、取り上げる人物は学者や文人はもとより、軍人、起業家から宗教家や漫画家まで、八百数十人に達する。
 敗者として著者が最も注目するのが、旧幕臣や佐幕派の人々のネットワークだ。<明治から大正にかけて、薩長藩閥政府がつくりあげたピラミッドの外に出るためる手段として、自分たちがもっている莫大な知識に、道楽という積極的な意味を与えていった人たち>が数多くおり、彼らが“街角のアカデミー”を作っていた。
 <そういう横の繋がりは、明治維新以降、旧幕臣、負けた藩、そして江戸っ子たちが原動力となって再組織されたもの>だ。例えば、麻布中学の創始者・江原素六、民俗学の祖父・山中共古、丸善の創始者の一人・中村道太といった人たちだ。
 とりわけ、ユニークなのが田中智学という人物だ。江戸日本橋に生まれ、町人的な教養を素地に劇作から建築までこなし、ついには中小企業者を母体に日蓮宗の一派<国柱会>を興した。その一方で、中里介山、北原白秋、木村荘八などの文人から、大川周明、北一輝などのファシスト、さらには暗殺集団「血盟団」の井上日召まで、多様多彩な人間に影響を与え続けた。
 その中で、石原莞爾、宮沢賢治、小菅丹治(伊勢丹・二代目)の三人を、著者は田中の影響を受けた「三ジ」と名づける。宮沢賢治は田中流日蓮宗の思考や想像力を、もっとも鮮やかにユニヴァーサル化した人、小菅丹治は田中のアイデアを活し、「伊」の字を真っ赤に染め抜いた大風呂敷を小僧に担わせて、東京中を走らせた人、そして石原莞爾は、日蓮宗によって天皇の存在を相対化し、狭い意味での日本性を超えてゆくきっかけをつかんだ人と、それぞれを位置づけている。
 文学、商業、軍事に通底する時代精神の躍動。−−この意外性こそ、山口流「敗者学」の真骨頂だろう。
 もっとも、本書は「敗者学」の序論ともいうべきもので、大まかなデッサンに留まっている。今後、いっそうの発展を期待したい。(現代社会研究所所長・古田隆彦)

W・スターリング他著『団塊世代の経済学』日経BP社週刊東洋経済,2000,3,18)

 アメリカは今「黄金期」にさしかかっている。この好景気が、最先端のテクノロジーや高度に発達した金融市場などに支えられているのはいうまでもないが、七六〇〇万人にも及ぶベビーブーマー世代の影響もかなり大きい、と本書はいう。一方では膨大な消費需要を生み出し、他方ではIT革命や金融工学を担っている中心層が、ベビーブーマー世代であるからだ。
 それゆえ、本書は、この黄金期が二〇一〇年ころまで続く、と予測する。その間にベビーブーマーたちの生産性や知恵がピークに達し、ITやバイオテクノロジーなどのハイテク革命で新商品、サービス、雇用が次々に創出され、アメリカはなおも世界経済をリードしていく。
 技術革新とグローバル化があいまって、物価水準は抑えられ、生産性は高まり、賃金は上昇し、長期金利は極限まで下がるから、株式は高騰し続ける。ベビーブーマーたちには、投資から得た利益を老後のためにたっぷりと蓄える、またとないチャンスが続く。かくして二一世紀の初頭に、ブーマー世代は人生最高の時を迎える、という。
 だが、これがいつまでも続くわけではない。本書の優れている点は、決して好景気に溺れず、その後のアメリカ経済の動向を、冷静に展望している点だろう。
 それによると、黄金期は二〇一〇年までで、その後は「氷河期」が来る。そのころから、大勢のベビーブーマーが定年を迎え始めると、政府のセーフティネットを食いつぶし、財政赤字を爆発させるから、ブーマー世代の年金は減少し始める。
 あわてた彼らが、株、債券、不動産などの金融資産を一斉に現金化し始めると、供給が大幅に過剰となり、さらに資産価値が急落する。その結果、ベビーブーマーにとって苦難の時代となるが、それは同時にアメリカ経済の停滞でもある。以後二〇年間、この停滞は続く、と予測する。
 では、この破局にどう対処すればいいのか。本書は対応策にまで踏み込んで、個人と政府の両方に提案する。アメリカ国民には、もっと貯蓄を増やして、幅広く分散させ、適度に積極性をもたせたポートフォリオに投資し、しかも株式市場で二ケタの収益など期待せず地道に投資を続けていくことが必要だ、と説く。
 他方、合衆国政府には、社会保障と医療保険制度が抜本的な改革が必要であることを一刻も早く国民に告知し、社会保障の民営化、個人年金と医療保険の通算可能化、そして引退という考え方そのものを見直すことなどを早急に進めるべきだ、という。
 ベビーブーマーの政治・経済への影響を分析する書籍は数多いが、彼らの引退や高齢化のインパクトを総合的に展望したのはおそらく初めてだろう。その意味で、本書はまことに貴重な一冊だ。
 だが、この分析がそのまま私たちの参考になるかといえば、必ずしもそうではない。なぜなら、アメリカのベビーブーマーは一九四四〜六三年の約二十年にわたる世代であるのに対し、日本の団塊世代は一九四七〜五二年のわずか五年間の世代であるからだ。
 このため、最先端が引退し始めるのはほぼ同じころだが、消費市場や労働市場への影響は日本の方がいち早く始まる。
 加えて、アメリカの総人口は二〇三〇年ころまで増加するのに、日本はあと数年で減り始める。つまり、多人数世代の高齢化や総人口減少の影響は、日本の方がより早く、より広範に始まるのだ。
 こうした意味で、本書の最大の利点は、日本の人口変動がアメリカの十数年先にあるという事実を、改めて認識させてくれることだろう。
(現代社会研究所所長・古田隆彦)

内田隆三著『生きられる社会』 新書館週刊東洋経済,2000,2,19)

 社会とは一体何であろうか。よくよく考えてみると、はなはだ曖昧な存在である。そこで、本書の著者は「社会とは何か」という本質論を一旦棚上げにして、日々増殖し生成している“存在”としての社会に迫っていく。
 その結果、社会とは歴史的な時間の奥行きと神話的な空間の奥行きが、<たがいに相手を包みこむような奇妙な関係>で融合しあっている場(トポス)であるが、同時に社会という存在そのものを相対化する根本的な次元、つまり<時空と身体との関係の地平を規定している力学的な存在の次元>もまた併せ持つもの、ということになる。
 こうした次元を「生きられる社会」と名づけて、著者は現代日本に生起する、さまざまな社会現象を素材に、八つの章でその実像を描き出す。
 まず神戸の連続児童殺傷事件については、そこに<社会が何を表象していたのか>を究明し、事件の背景としてスポーツ、ファッション、エステ、ダイエット、ドラッグと、資本の言説が身体を極端に膨張させた結果、「精神と身体が奇妙に乖離」してしまったという事情を探り出す。
 それゆえ、<少年が抱いた「死」への関心、あるいは「人間の壊れやすさ」を確かめる実験という「奇妙な挿話」を、少年の「精神」を通過していくこの時代のリアリティとの相関でとらえなおさねばならない>と主張する(「斜面の上の精神」)。
 また現代の大都市を覆う幻想の深さを象徴するものとして、賭博と娼婦をとりあげ、この二つの領域では<貨幣と商品の等価な交換ではなくて、むしろ「貨幣の投棄」にみえるような現象が発生している>が、それはともに「運命」を玩ぶことに関わっているからだ、という。言い換えれば、売春とは特定の性的サービスを売る、一定の交換価値を持った商品というより、<都市が群衆によって生きられ、商品という仮象を身にまとい、その偽りの輝きに染まっていく過程の深さを暗示している何か>なのである。
 とすれば、モノの「価値」が生まれるのは、多くの人々が価値法則の幻影に支配されているためという事情を超えて、<商品にかかわる場を構成しているもっと多くの集合的な無意識>の幻影に支配されているためなのではないか。消費社会の本質を知るには、この無意識の歴史的な奥行きにもっと注意を払うべきだろう、と指摘する(「ベンヤミンの貨幣論)。
 さらにマクルーハンの『機械の花嫁』という、奇妙な表現をとりあげ、彼が意図したのは、現代社会を「神話としての存在」として位置づけることだった、と再評価する。例えば、機械の代表である自動車は、力とスピードという機能性、趣味やファッションという記号性を表しているが、それ以上にマン・マシンの融合という、「機械時代」に固有の「論理感覚」を体現している。そこで、交通事故でさえも、この融合からの離脱をめざす「絶望的な」願望の表れという、神話的な言説で語ることが可能になるという(『テクノロジーの世紀』)。
 以上のように、「生きられる社会」論とは、従来の主流であったシステム論的な社会論はもとより、それを批判する“生活世界”的な社会論をも超えて、より生々しく社会の実像に迫っていくものだ。言い換えれば、統合化を急ぐあまり、ともすれば形骸化しがちな既存の社会学に対し、哲学性や文学性の回復を叫ぶ動きともいえよう。
 その意味で、著者の主張は、従来の社会像に新たな地平を切り開く可能性を秘めている。と同時に、感覚や散文の誘惑に堕ちていく危うさをも、濃厚にはらんでいる。(現代社会研究所所長・古田隆彦)

E・トッド著、平野泰朗訳 『経済幻想』藤原書店週刊東洋経済,2000,1,15)

   「グローバリゼーションは幻想だ」と、フランスの歴史人類学者である、本書の著者はいう。
   確かに「ヒト・モノ・カネの自由な流通に、不熟練労働や熟練労働の所得の低下、不平等の拡大、成長率の下落、そして最後に経済停滞の傾向」など「地球規模の経済論理」は存在している。
 だが、「グローバリゼーションという経済学者のレトリックは、技術的必然性が国民の解体に導くという単純な論理を使った」イデオロギーにすぎない。文化人類学的に下意識、無意識の次元まで下りてみれば、「国民の内部分裂のダイナミズムが経済解放となって現れ、グローバリゼーションという目に見える意識レベルの現象」へ導いているのが、本来の姿だという。
  こうした視点が生まれてくるのは、著者がグローバルな資本主義など存在しえないと考えているからだ。もともと資本主義は、さまざまな家族形態と密接に結びついて成立している。
  世界中の家族は、両親と子の関係(自由主義か権威主義か)、兄弟同志の関係(平等か不平等か)で、幾つかの類型に分かれる。自由主義的で非平等主義的なアングロサクソン風の「絶対的核家族」、なかば権威主義的で平等主義的なフランス風の「平等主義的核家族」、権威主義的で不平等なドイツ、日本、韓国などの「直系家族」、権威主義的で平等主義的なイタリアやロシアなどの「共同体家族」・・・。こうした家族類型に婚姻規則(外婚か内婚か)が重なって、個人主義の水準が決まり、それが各国民の経済システムを作りだす。
 例えば、アングロサクソン的な個人主義的資本主義では、企業の目的は「短期企業利益の最適化」であり、消費者の満足をめざして、生産要素に従う。他方、ドイツや日本の直系家族型資本主義では、企業の目的は「利潤の最適化や株主の満足」ではなく、「生産の完成と拡張による市場シェアの支配」であり、生産者が王であって消費者は控えめな存在にすぎない。
  前者の特徴の大半は、「個人の解放と移動の自由に価値をおく」絶対核家族の基本的価値に帰することができるし、後者の特徴である投資のための高い貯蓄性向は、貯蓄と投資で未来に賭けるという家族感に基づいている。
 それゆえ、二つの資本主義では、グローバリゼーションへの対応も、まったく異なってくる。前者では完全な自由貿易や自由な貨幣制度を求めるが、後者では保護主義的で、権威主義的な貨幣制度を求めることになる。
 そう考えると、九〇年代の世界経済の課題とは、グローバリゼーションの急進にあるのではなく、むしろ世界規模での需要不足であり、その原因は自由貿易体制そのものにある。なぜなら、輸出入の拡大で生産者と消費者は隔絶され、費用支出と需要形成が離反する状況がますます拡大しているからだ。
 これを避けるには、国外に対する保護主義と国内での自由競争しかない。保護主義とは、国民国家の再構成を意味するが、それが必要なのは、人間にとって、最もリアリティーのある共同体であるからだ、という。
 本書の主張は、正統派経済学者や官庁エコノミストは勿論、経営者やビジネスマンにとっても大変、奇異に映るだろう。だが、本書をほんの数頁読んでみれば、そうした誤解はまもなく驚きに変わる。単純明快な統計を駆使しつつ、経済現象を支える人口、家族、教育、文化などの影響力が鮮やかに描写されているからだ。ここには、経済学と関連諸科学を統合する、新たな地平が見事に開かれている。(現代社会研究所所長・古田隆彦)

S・カウフマン著・米沢富美子監訳『自己組織化と進化の論理』 日本経済新聞社 (週刊東洋経済,1999,12,11)

 東海村の事故で有名になった「臨界」現象とは、濃縮ウランやプルトニウムが集まり過ぎて、核分裂の連鎖反応が爆発的に起きることだ。
地球上で無機物から生命が発生する過程もこれと同じだ、と本書の著者はいう。「化学スープの中で分子の種類がある閾(しきい)値を超えると、自己を維持する反応のネットワーク(自己触媒的な物質代謝)が、突然生ずる」のだ。
 もっとも、生物界は全体としては臨界点を超えていくが、個々の細胞は臨界点の毛前で押し留まる。この緊張関係によって、個々の生物は臨界点の前後で微妙な平行を保ちつつ、「手に負えない大爆発」を避けている。それは丁度、原子炉の中の炭素棒が中性子を吸収して「超臨界的な連鎖反応を妨げる仕組み」と同じなのだ……と。
 本書は、今を時めくサンタフェ研究所の客員教授が「複雑系の科学というまさに登場しつつあるサイエンスを通して」、斬新な仮説を提案したものだ。このため、複雑系や自己組織化という専門用語の本質が明快に解かれている。例えば、生命は「単純から複雑へ」と進むのではなく、最初から「複雑で全体的な形」として現れる、と説明する。
こうした立場から、著者は近代生物科学の主流である自然淘汰説を批判する。ダーウィンの説く自然淘汰と突然変移の組み合わせだけで、もし進化が起こるとすれば、生物が現在のような姿に進化し、人類が地球上に存在するようになったのは、偶然中の偶然だ。だが、そうならなかった、もう一つの機構として自己組織化があったからだ。
 自己組織化が働くのは、「カオスの縁」(秩序とカオスの境界)の間際だ。進化のシステムは、秩序の中だと停滞し、無秩序の中だと秩序への道を見失う。両者の「臨界点」において、その時々に最も適した秩序を形成していく。
 とすれば、生物の進化とは、最初に自己組織化が、次に突然変移と自然淘汰が起こって、最後の仕上げすると考えるべきだろう。その結果、われわれ人類もまた、「究極の法則の子ども」であるとともに、「歴史上の偶然の金襴織りから生まれた子ども」ということになる。
 そこで、著者はこの仮説を生物界の現象を超えて、広く社会現象にも応用していく。分子、細胞、生物の発生から人間の社会構造の発生に至る、生命発展の歴史の中で、自己組織化と自然淘汰は、すべて関連し合っているのだから、文化や経済分野はもとより、歴史においても、「ある法則に従ったパターン」が存在するはずだ、と予言する。
あるいは、砂山の砂が、崩れる寸前で均衡を保つ「自己組織化臨界現象」は、物理や生物の世界だけでなく、経済の世界でも起こりうる、とも主張する。
 ビジネスや政治の組織についても、「より平坦でより分散化した組織」のほうが「柔軟で総合的競争力が高い」のは、部分部分が勝手に利益追求すると、それぞれが系全体に害があったとしても、「あたかも見えざる手が作用したかように、系全体の向上につながる」からだ、という。
 そして、経済現象もまた網目構造である以上、「構造自体が経済網の変化の仕方を決定」するのだから、網目を「経済システムの成長と変化の仕方を決める重要な因子」とみなす、新たな経済理論が必要だ、と提案する。
 生物学の主張としては、まことに魅力的かつ整合的な仮説だ。だが、社会現象へ適用はいささか安易すぎるのではないか。社会現象とは、秩序とカオスの臨界点に加えて、自然界と人間界の臨界点にも影響される、より不安定な領域でもあるからだ。(現代社会研究所所長・古田隆彦)

間宮陽介著『同時代論』岩波書店週刊東洋経済,1999,11,13)

 九〇年代の思想状況を顧みる時、最大の特徴は自由主義に対する二極的な分裂、つまり「リバータリアニズムとコミュニタリアニズムへの分裂」だ、と著者はいう。
 象徴的な事例が九三年来の規制緩和をめぐる論争。外観は規制緩和の経済的メリットとデメリットをめぐる経済論争だったが、思想的にみれば、<一方は自由のアナーキズムとしてのリバータリアニズム(自由放任主義−−評者注)、他方はそれを宙に浮いた自由とみなし、このような自由を制約するために共同体への回帰が必要だと訴えるコミュニタリアニズム(共同体主義)という、二つの思想陣営の間での論争>であった。
 二つのうち、著者はまずリバータリアニズムへの過剰な期待を批判する。「市場に委ねれば万事はすべてうまくいくという楽観がここ十数年ますます広がりつつある」が、それは幻想にすぎない。
例えば、経済戦略会議の答申。<新古典派やマネタリスト、あるいは彼らと同様の市場観を持つ経済戦略会議のメンバーたちは、(中略)自己欺瞞の上に立って「小さな政府」と競争のメリットを一面的に強調している。なぜなら、彼らは競争を枠づける制度的枠組を不問に付すか、(中略)ひとたび制度を形成すれば市場システムは自動運動を続けていくかのような錯覚に陥っているから>だ。
 このため、<一国経済が( ケインズのいう意味での)貨幣経済と化し、さらに経済がグローバル化をますます強めていく中で、不動産の流動化を促進し金融ビッグバンを推進するための施策を採ればバブル経済が精算され、「健全で創造的な競争社会」が実現するという経済戦略会議の見解>は、あまりにもナイーブである。答申に示された<市場社会観は古典派・新古典派的な市場社会観であり、彼らはケインズ以前の市場社会観に逆戻りしている>と、著者は酷評する。
 他方、コミュニタリアニズムに対しても、<民主主義を集合的意思決定のためのマシーンとのみ見てその負の側面を強調するのではなく、(中略)公共的空間を形成する不可欠の制度と見てその再建・強化を図るべきなのに、戦後民主主義を否定する論者は民主主義の中に前者のみを見て民主主義の全体を懐疑するのである>と反論する。
 では、二つの主義を超えて、第三の道はあるのか。著者が期待するのは、「公共性」の復権だ。公共性とはいっても、家族、地域、国家へ短絡的に服従するそれではなく、入会地や街路のように、個人の内と外の接点に独自に開けてくる「公的空間」である。
 著者はハンナ・アーレントの<公的空間は「活動」によって形成される>という説を採る。ポリスのような公的空間を作り出す「活動」は、人間の内部と外部を調停する結節点であるうえ、「出来事」を創出する働きを持つ。出来事はハプニングとしての性格を持つと同時に、ナラティブ(物語)に発展する可能性を秘めているから、新しい公共性への道を開く、という。
 それゆえ、<公共性の問題は空間論として論じなければならない、そうすることによって公共性をめぐる論議は言葉や観念のみの議論から解放され>、世界の構想に<一定の役割を果たしうる>と結論づけている。
 本書は過去一〇年間に発表された二一の論文を、三部構成にまとめたものだ。個々の論文も発表当時の時流を鋭くとらえているが、全体としても、大勢に流されがちな思想状況に冷静な眼を向けている。第三の道の中身はまだ粗いものの、経済学の現状と日本の将来を憂慮する読者には、必読の一冊である。(現代社会研究所所長・古田隆彦)

I・ウォーラーステイン編『転移する時代』藤原書店(週刊東洋経済,1999,10,9)

 二十一世紀の世界は一体どこに向かっているのか。この問いに応えて、本書では「一九四五−九〇年の世界システムに生起したことに評価を下し、それを通じて今後二十五−五十年間に世界システムがいかなる軌道を進むのか」を描き出そうとしている。
 編者のI・ウォーラーステインは米国の社会学者で、資本主義経済によって十六世紀以降の世界は一体化したという「世界システム論」の提唱者。彼が主宰するフェルナン・ブローデル経済・史的システム・文明研究センターは、一九九二年に「世界システムの軌道」研究プロジェクトを実施したが、その成果をまとめたものが本書だ。
 研究の枠組みは、コンドラチェフ波動と国家間の覇権サイクル。コンドラチェフの拡大期は一九四五年ころに始まり、六七〜七三年をピークに沈滞期に転じて、九〇年代に至っている。もう一方の覇権サイクルは、一九四五年に始まったアメリカの全面覇権が、六七〜七三年に崩壊過程に入り、そのまま続いている。結局、六七〜七三年は、短期的なコンドラチェフ波動と、長期的な覇権サイクルの、両方のピークであった、という視点である。
 この視点を実証するため、本書の第一部「制度のヴェクトル−−一九四五−九〇年」では、近代世界システムを構成する諸要素、つまり国家間システム、世界生産、世界労働力、世界人間福祉、国家の社会的凝縮力、知の構造の七つが、量的、質的に丁寧に分析されている。
第二部では、編者がこれらの分析をまとめて、三つの結論を引き出す。その一つは、一九四五−九〇年の時代にはコンドラチェフ波動に通常見られる特徴がすべて現れていること、二つめはアメリカの覇権サイクルがこの時期のほぼ中間点でピークに達し、下降局面に入ったものの、九〇年現在、なお最も強力な国家として留まっていること、三つめはコンドラチェフ波動と覇権サイクルの両方の沈滞局面の到来を裏付けるような種々の現象が現れているうえ、七〇〜八〇年代には世界システムの歴史の上で「長期的趨勢の逆転が始まったことを思わせる状況」がいくつも発生していること、の三点だ。
 以上の趨勢を踏まえ、一九九〇−二〇二五年の世界を予測すると、現実的な可能性は二つしかない、と編者はいう。
第一は、過去五世紀間、資本主義世界経済として機能してきた世界システムが、なお命脈を保ってほぼ同様に機能し続けるという可能性。コンドラチェフ波動は再び上昇に転じ、覇権サイクルもまた再構築に向けて再び起動する。
 第二は、七〇年代から顕著になってきた諸現象は、コンドラチェフ波動や覇権サイクルを超えたものであり、若干の調整程度では、世界システムが同じ姿を続けてゆくことは困難、という可能性。
 編者は、第二の仮説が立証できなければ、第一の仮説が継続するという方向で分析を進めていく。が、その結論は「われわれが描いてきた世界システム像は火種が充満した箱のようなものであり、いったん火がつけば必ず燃え広がる。それはまさにシステムの混沌と言うほかはない」という、第二の仮説に近いものだ。
 そのうえ「システムの混沌の後には何らかの新しい秩序、あるいは新しいいくつかの秩序が到来する」が、「新しい秩序がいかなるものであるかを見抜くことは不可能」とも弁解している。
 前半の詳細な分析に比べて、この結論はいささか拍子抜けだ。だが、考えてみれば、コンドラチェフ波動という、不確実な神話に頼っている限り、こうなるのは当然なのかもしれない。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

武藤博道著『消費不況の経済学』日本経済新聞社(週刊東洋経済,1999,9,4)

 バブル経済の進展から崩壊に至る、過去十余年の消費動向を振り返った時、「選択的消費」が「調整弁としての役割を果たしている可能性が大きい」と著者はいう。なぜなら、八〇年代以降の消費支出において、選択的支出の占める割合は、すでに四割に達しているからだ。
 こうした視点から、本書では一九八五〜九七年の家計消費と景気動向の関係を、多様なデータを駆使して詳細に分析している。とりわけ、前半の三章では、社会・経済の動向に対応して、この十余年を三つに分け、それぞれの時期のマクロな消費動向を手際よく抽出している。
八〇年代後半を扱った「バブルと家計消費」の章では、バブルの拡大と崩壊が家計消費に与えた影響を、キャピタルゲインとキャピタルロス、資産効果と逆資産効果の両面から測定している。それによると、大方の予想に反して、実質資産と実質キャピタルゲインやロスの消費に対する限界的効果は、八五年以前よりも八六年以降のほうが小さかった。八六年以降のキャピタルゲインとロスの騰落に対して、消費の変動幅の方が小さかったためだ、という。
 九〇年代前半の「価格破壊と消費」の章では、価格破壊の進行に対する消費者の反応を抽出し、価格低下がデフレ現象であったなら、賃金低下をもたらし、かつ価格低下期待による買い控えで実質消費が減少するはずであったのに、そうならなかったのは「価格の低下が消費者の実質所得を増やす効果を発揮した」ためだ、と要約している。
 九〇年代後半に関する「将来不安と消費不況」の章では、九七年以降の消費不況の原因を「九兆円の負担増と大手金融機関の破綻に触発された将来不安の複合した産物」だとし、それが「消費と所得の相乗作用を通じて消費不振を促進した」と説明している。
これらの時系列的な分析を通じて著者は、過去十余年にわたるわが国の消費動向では、「選択的消費支出が一時的ショックのバッファー(衝撃吸収装置)として機能できるだけの内容を備えている、あるいはそれだけ高い消費水準を実現している」ことを明らかにする。そして、それがゆえに、「近年の短期的な消費変動の背後には、選択的消費支出の高まりという長期的要因が重要な役割を演じている」と結論づけている。
 以上の論旨は、目配りの効いた枠組み、的確な分析装置の採用、正確なデータの採集など、極めて精緻なもので、消費経済分析の最良の成果の一つといえるだろう。
 ところが、後半の三章で 「選択的消費の動向と切り離せない」ミクロな消費行動の分析に移ると、一変して精度が落ちてくる。
 時間消費の分析では、無償労働、家事関連時間、時間配分など、主な研究課題を一通り取り上げるものの、統計的描写の範囲に留まっている。また子育てコストについては、統計データの限界などで「期待通りの計測結果は得られていない」と自ら述べている。さらに高齢者の経済状況分析でも、バブルの前後で「高齢者の相対的地位はほとんど変化していない」とか「消費パターンに目立った影響をもたらしていない」など、実態をつかみきれていない。
 この落差は、著者の準拠するミクロ経済学が、統計の整った分野では有効に働くものの、それ以外では立ち往生するためだろう。とすれば、選択的消費の中でも、次第に比重を増している自己実現消費や参加型消費などは、統計的制約が多いゆえにますます把握が困難になるはずだ。統計の整備が必要なことはいうまでもないが、研究方法にも新たな工夫が必要ではないか。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

C・G・ユング著、林道義訳『元型論』紀伊国屋書店(週刊東洋経済,1999,7,17)

 心の動きには遺伝的なパターンがあり、人間は無意識にもそれに従っている」というC・G・ユングの思想は、近代的な人間観に衝撃を与えただけでなく、昨今の高度消費社会にもさまざまな影響を及ぼしている。現に『もののけ姫』や『エヴァンゲリオン』から『本当は恐ろしいグリム童話』まで、近年の流行現象には無意識や神話などへ深い傾斜が見られるからだ。
 本書はユングの中核思想である「元型」について、既訳の二冊を合本し、詳細な解説と索引を加えたもので、訳者が自負するとおり『元型論』翻訳書の決定版である。
 ユングによると、私たちの無意識には、表面的な個人的無意識と、深層的な集合的無意識があり、後者は個人的に獲得されたものではなく、遺伝的なものだという。新生児の心は決して「白紙」などではなく、その動きは本能と同様、遺伝によって決められており、外からの感覚刺激に対して、人間という<種に特有の準備体制をもって立ち向かうもの>である。
 こうした心の動きを、ユングは「元型」と名づけ、それを象徴するイメージとして、影、老人、子ども、母、少女、トリックスターなどを示した。元型というイメージは、直接遺伝するのではなく、イメージ形成の可能性として遺伝していく。
 また、この遺伝的なイメージパターンは、他の生物では環境世界からの刺激に応じて作動するものだが、人間の場合は刺激がなくても独立して作動し、<幻想や空想という形をとったり、神話や宗教のイメージを生み出したり、豊かな創造力の源泉になるかと思うと分裂病のような妄想を生み出>すこともある。つまり、元型とは大昔から人類に備わっている、心の作動パターンであり、個人の一生を通じて目的毎に次々に現れてくるものなのだ。
 さらに、この遺伝は一人ひとりの個人ではなく、世界中の万人に共通して伝わっている。世界各地の神話やおとぎ話に幾つかの共通項があることが示しているように、元型は<伝統や言語や移住によってのみ世界中に広まるのではなく、いかなる時にもいたるところで自発的に繰り返し発生>している。
 無意識をこのようにとらえたうえで、ユングはさらに、近代以前の人たちが「運命」とか「神」とか「精霊」とよんでいたもの多くが、実は人間自身の「内なる他者」の投影にすぎないことを明かにしていく。<集合的無意識とは個人的な心の仕組みが顕わにされたものでは絶対にない。それは全世界へと拡がり、全世界へと開かれている客体性である。その中で私はあらゆる主体にとっての客体であり、それは私がつねに主体であって、客体を所有しているというような通常の意識とは正反対の状態>である。
 これはまさに「自分の中へ迷い込む」ことだが、ここでの「自分」とは狭い意味での自分自身ではなく、自他を区別しない「世界」そのものである。とすれば、ユングの主張する「個性化」や「自己実現」とは、単なるミーイズムや自己主張をさすのではなく、「内なる他者」が自分であることを実感し、それを自己自身の中に包みこむことを意味しているのだ。
 以上の視点が示唆するのは、現代人の肥大化した自意識を救う道である。とりわけ、「自己実現」の名のもとに利己主義を膨張させている、昨今の日本人にとっては、傾聴すべき警告を秘めている。
 本書は専門的な論文集という性格上、反復や臨床例が多く、かなり読みずらい。が、もし丹念に読み通せば、ユング思想の本質に迫ることができる一冊だ。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

中村雄二郎著『正念場』岩波新書(週刊東洋経済,1999,6,19)

 この数年、オウム真理教事件、住専処理問題、薬害訴訟問題などで、行政当局や銀行、企業などがとった無能な行動や無責任な発言は、経済的なバブルの崩壊に続く知的、道徳的な頽廃を示している。
 これらの事態に、わが国の哲学界を代表する著者は、《 平常心をもって<不易>と<流行>との緊張関係のうちに生き、誇りを持つとともにおのれにきびしかったかっての日本人の美風は、いったい何処へ行ったのだろうか》と自問し、その意味で《私たち日本人一人ひとりがいまやまさに、<正念場>に立たされている》と宣言する。
 著者は九六年四月から二年五カ月の間、某紙にエッセイを連載した。本書はそれをもとに加筆、再構成したもので、生命主義、不寛容、日本人のアイデンティティー、老いと死など、五つの視点から現代日本を考察している。
 その一つ、「世界のなかの日本」の章では、著者が参加したエラノス会議、世界文化アカデミー、プリンストン大学国際シンポジウムなどを通じて、オウム真理教事件を多角的にとりあげ、事件の背景として、戦後日本社会の<宗教的空白>、儒教の日本化に潜む<誠>、東アジア地域における、マルクス主義以降の<宗教の再評価>の、三つを指摘している。
 「拝外と排外」では、《日本の歴史は、二つの<ハイガイ>つまり<拝外>と<排外>の交代だった》とする神島二郎の説を引用して、日本人のアイデンティティの行方を考察する。P・リクールによると、アイデンティティ(自己同一性)には、自己の連続性や恒常性につながる<同一性>と、かけがえなしに自分が自分である<自己性>の、両面が含まれているが、二つを区別しないと《自己の陶酔的な絶対化》に陥っていく。
 昨今の日本の混乱は《集団の場合も個人の場合も、なによりも、おのれを異化するものを含まないままに、自己を肥大させてきたことの結果》であるから、最初から自己のうちに他者を見ることで、自己と他者の分裂を免れることが必要だ、と説いている。
 「電子メディアの時代」では、<デジタル社会>を、度はずれに利潤を追求する社会、効率のいい開発を優先する社会、目に見えるものだけを安易に信じる社会、と厳しく定義したうえで、この意味でのデジタル社会が、わが国で加速したのは、《経済のバブル的な肥大現象と、効率的な電子メディアの普及という二つの相乗作用が、それに対抗する原理と方策なしに進行した》ため、と推論している。
 そして、その弊害を乗り超えるには、M・バーマンの説くように、《精神と物体とがその成立原理を異にするならば、そのかぎり、自然界を支配する機械論的因果性も決定論も、精神に対しては無力》なのだから、G・ベイトソンが見事に行った<世界の再魔術化>という、<近代知>の正の遺産を、的確に受け継いでいくことが必要だ、と述べている。以上のように、論点は極めて多岐にわたるが、いずれの章でも、最先端の哲学的叡知を可能なかぎり、現実社会へ適用しようとする、著者の態度は一貫している。連載を始めるにあたって、著者は「時代の証人」として自らの身を曝すことで、《自分自身にとっても、あえて「正念場」に立つことを覚悟した》という。その言葉通り、本書は《臨床的》な哲学を唱える著者の、一つの到達点なのだろう。
 だが、読後の印象がいささか平板に思えるのは、著者の知があまりにも同時代的すぎて、歴史の流れの中に現代日本を相対化していくような、通時的な思考が不足しているためではないか。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

加藤典洋著『可能性としての戦後以後』岩波書店(週刊東洋経済,1999,5,15)

 高度成長期の社会は、「…したい」という欲望に基づく生き方を拡大させ、「…しなければならない」という義務感と対立させてきたが、ついには後者を凌駕してしまった。その結果、現代の日本には、私的な欲望ばかりが溢れ、政治腐敗から学級崩壊まで、公共性が著しく萎んでいる。今や新しい公共性の構築が必要な時期だが、それは「…しなければならない」という命題の上ではなく、「…したい」という欲望の上でなければならないだろう。
 こうした視点を基調に、本書は、名著『敗戦後論』の前後に書かれた六つの論文をとりまとめたものだ。もっとも古いのは八八年に書かれた「日本人の成立」で、昨今の流行に先駆けて「日本人」という観念の成立過程を推定している。この観念は差別主体、つまり「天皇」と深く結びついて形成された経緯があるから、今後の課題は「日本人」をどのように天皇から切り離し、より開かれた範疇に変えていくか、にあるという。
 「失言とベシミ」は、日本人の伝統的な態度と思われているタテマエとホンネの区分が、実は戦後の産物にすぎないことを実証したもの。その背景には「いったん完全に優者に屈伏、帰依した劣者が、その優者が立ち去った後、自分のぶざまな敢然敗北を認めまいとして行う自己の籠絡の試み」という、戦後体験がある。だが、こうした態度の根底には、神楽や能で用いられるベシミ(渋面の仮面)に象徴されるように、「劣位者たる古代以来の列島の住人たちの、自己戯画化、自己批評の力の現れ」が見られるという。
 福沢輸吉の「痩我慢の説」を素材にした論文は、民主主義とナショナリズムの関係を考察したもの。勝海舟を強く批判する福沢論文は、「立国は私なり、公に非ざるなり」で始まっているが、これは、国があるうちは「忠君愛国」でやっていけるが、国がなくなったら、私情(痩せ我慢)で支えるしかない、という立場だと解説する。
 「二つの視野の統合」は、見田宗介の『現代社会の理論』を素材に、将来への課題と展望を語ったもの。三田は、情報化・消費化の「光」と、資源・環境・南北・貧困問題などの「闇」を併せ持つ現代社会を全体としてとらえるには、両者の矛盾とその克服を、統合的な理論として示す必要がある、と述べている。
 著者はこれを高く評価したうえで、消費と情報にまみれた「北」の人間が「南」や「 外部」へ関心を向ける内在的な筋道が欠けている、と批判する。その代案として、吉本隆明の「第二次産業と第三次産業の境界に起こる公害」は「精神の障害」という主張をとり入れ、そうなった時、 初めて「北」の人間は、「南」へ関心を向け始める、という筋道を想定している。
各論文のテーマは多様だが、一貫して流れているのは、新たな公共性の構築だ。従来は対立すると考えられてきた私利私欲と公共性が「ほんとうは対立しないのではないか」という疑問であり、「公共性は、私利私欲の上に立脚しなければ、強いものにはならない」という主張である。現代社会の諸問題に、言語の次元や内在的な次元から肉薄していく著者の論旨は、文芸評論家ならではの、強い説得性を持っている。
 だが、私利私欲の追求が公の基本という論理は、古典派から新古典派に到る経済学の常識であるうえ、その過剰な追求が昨今の国際金融破綻の原点でもある。また見田の統合理論も、日野啓三が某紙の書評で酷評していたように、決して目新しいものではない。こうした疑問に、著者はどう答えるのだろうか。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

A・ハモンド著・竹中平蔵監訳世界資源研究所訳『未来の選択』トッパン(週刊東洋経済,1999,4,10)

 二一世紀の世界はどこに向かっているのか、世紀の変わり目を前に、社会的関心が高まっている。
アメリカでも、ブルッキングス研究所、サンタフェ研究所、世界資源研究所という三大シンクタンクが、六年前から「二〇五〇プロジェクト」を組織し、共同研究を実施してきた。本書は、そのメンバーの一人が研究成果を基に書き下ろしたもので、二〇五〇年の世界を展望する、三つのシナリオが紹介されている。
 第一は「市場にまかせる世界」で、経済改革、技術革新、途上国の経済発展などにより、すべての人々が豊かで平和で安定した生活を享受できるというもの。
 第二は「要塞に守られる世界」で、貧富の差が広がり、途上国が取り残され、環境が修復不能になり、紛争や暴力が広がるというもの。
 第三は「改革される世界」で、洞察力のある指導者や草の根の市民運動が社会・政治改革を進め、権力や富が分散し、市場と環境が調和して、世界中の人々の基本的ニーズが満たされるというもの。
 第一、第二のシナリオでは、従来のトレンドを将来に延ばす「外挿法」によって、楽観、悲観の両極端が予測され、また第三では、最初に望ましい目標を掲げて、そこに至るプロセスを描く「規範法」で、理想モデルが示されている。
 こうした手法は、未来予測の最も常套的なもので、さほど新味はない。だが、本書の大きな利点は、シナリオの基礎となる人口、経済、技術、環境、安全保障などの基礎データが的確に提示されていることだ。もう一つは、このシナリオがラテンアメリカ、中国、インド、アフリカなど七つの地域別に詳細に実施されていること。これにより経済、技術、環境など、地域別の問題や課題が明確に浮かび上がっている。
三つのシナリオのうち、一番起こりうるのはどれか。「 現在の長期的動向からすれば、楽観的な未来と悲観的な未来のどちらも十分に可能性がある」と著者はいう。
 そこで、最も望ましい第三のシナリオに到るには、「今後数十年間に、人間社会がどんな選択をするかにかかっている」。つまり、最も重要なのは「私たちには未来をかたちづくることができる」という自覚を持つことであり、かつそれを実行していくためには「ある程度の戦略的な考え方が必要」なのだ、と述べている。
 この考え方は、良くも悪くも、アメリカのシンクタンク的発想だろう。三つの研究所の豊富な研究蓄積を基礎に、二一世紀の世界を理想に向けて強力にリードしようとするのは、まさしくアメリカの知性と良心を示している。
 だが、それがゆえに、限界もある。理想モデルである第三シナリオそのものが、民主主義、改良型資本主義、グリーン主義、NGO、フィランソロピー、開発主導主義など、アメリカ的価値観で一元的に書かれており、アジア、アフリカ、アラブはもとより欧州や日本などの多様な文化や価値観と必ずしも一致するとは限らない。二一世紀とは、S・ハンチントンが『文明の衝突』で指摘したように、文化や民族性がもっと激突する時代なのではないか。
 もう一つは、予測の素材をたかだか一〇〇年間のトレンドに頼っている点。二一世紀を総合的に描くには、技術や経済だけでなく、文明や大国の興亡を、より長期的にとらえる視点が必要だろう。
 以上を考え合わせると、最も起こりうるシナリオは、第一の方向が拡大した結果、第二の限界に突き当たって大破局となり、その結果として第三の道がようやく模索されるというものではないか。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

N・ボルツ著、村上淳一訳『意味に餓える社会』東京大学出版会(週刊東洋経済,1999,3,13)

 「ポストモダンとは新しい時代などではなく、意味論的カタストロフのこと」だと、エッセン大学(独)教授の著者はいう。意味が消えてしまったのは「世界が科学・技術によって魔術から解放された」からだ。
 この世界が科学的、技術的になればなるほど、私たちが「意味のある」ものとして世界を体験する機会は急激に減っていく。情報化の進展で、情報量は加速的に増えているのに、情報とは「意味と無意味を区別しない」ものであって、「意味」を提供してくれるものではない。
 本当の「意味」とは、私たちが「どんな行為においても世界全体のことを思い浮かべられるための媒体」、つまりバラバラだったものを「突如として世界像へと結晶」させるもののことだ。
 そこで、意味に飢えた人々は学問の知性主義に救済を求める。これに応えて、昨今では「学問的な大仕掛けを使って学問からの救済を競う市場が形成され、未来学者やヴィジョン提供者やトレンド研究家や企業コンサルタント」が活躍している。
彼らが生み出すのは、まことに逆説的だが、「呪文としての学問」だ。「科学・技術による近代世界の脱魔術化に対抗して、今日の祭儀マーケティングは、美的な魔法による再魔術化の戦略」をとる。啓蒙主義が奪った呪術的魔力に代わって、コマーシャルとマーケティングが未来を賭けているのだ。
 その結果、私たちはブランドとモードの多神教の世界に生きざるをえない。「マーケティングとコマーシャルの世界は、いまではもはや目的と欲求と計算の世界ではなく、呪術とトーテム信仰と物神崇拝の世界」であるから、資本主義もまた一種の宗教になる。
 W・ベンヤミーンは一九三〇年代に、この動きをいち早く「資本主義教」と名づけ、「資本主義はキリスト教に寄生し、キリスト教の力を養分にして生きてきたので、ついには宿主と一体化してしまった。だから、近代のキリスト教の歴史は資本主義の歴史でもある」と喝破していた。
 彼の予言通り、今や資本主義は「純粋な祭儀宗教」となった。が、この宗教には教義も神学もない。それはただ「 異教のさまざまな原初形態に見られるように、直接ご利益をめざすもの」にすぎない。
 とすれば、現代社会で本来の意味を取り戻すにはどうすればいいのか。著者はそれを文化の再構築に求める。文化こそ近代社会の「複雑性から逃げる道を教えると約束し、統一性のシンボルを提供してくれる」ものであるからだ。
 この視点から著者は「ポスト産業社会の中心問題は、意味という希少なリソース、生の意味」になると予想し、「 人間とは元来、意味をつくり出す生き物なのだ。人間はどこかの隅に隠れて生きるのではなくグローバルな世界の地平に生き、そこで世界の在り方を描いてみせるのである。それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化にほかならない」と結論づけている。
 ハイテク化、情報化、消費化の進む現代社会の病根に、ドイツ思想界の伝統を踏まえて、執拗に切り込む視点は大変鋭く、英語圏とは一味違う、刺激的な現代文明論に仕上がっている。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

東浩紀著『存在論的、郵便的』新潮社(週刊東洋経済,1999,2,13)

 現代思想の最先端を疾走する哲学者J・デリダは、七〇年代から奇妙な論文を発表し続けている。六〇年代までの明晰な文体を放棄し、「別のテキストへの暗黙の参照や引用、論述の意図的中断や迂回によって極度に断片化され重層化」された文体で、読者に「暗号解読」を強いるようになった。彼はなぜこんな文章を書くようになったのか。この謎をめぐって、二七歳の東大大学院生が、デリダの思弁の軌跡を執拗に解読してみせたのが本書だ。
 著者によると、この奇妙さにこそ、デリダの基本思想、「脱構築(デコンストラクシオン)」の深化が潜んでいる、という。脱構築とは何か。六〇年代にデリダは、言葉の意味が発話主体によって同一性を保っているパロール(話し言葉)と、読み手によって多様に解釈できるエクリチュール(書き言葉)の間のズレを利用して、他の哲学者の文章から「言いたくないこと」を導き出し、最終的には彼のテキストを自分のものにしてしまう戦略だ、と述べている。
 それから三〇年間、デリダは「脱構築」理論をますます深化させてきたが、その過程を著者は、フッサール、ソシュール、ウィトゲンシュタイン、ゲーデル、ハイデガー、ラカン、フロイトなど、現代思想の巨人たちと比較しながら緻密に解読していく。
 結局、デリダが辿り着いた脱構築とは、「ハイデガーの影響を受けた論理的−存在論的脱構築と、フロイトの影響を受けた郵便的−精神分析的脱構築」の接ぎ木によって成り立つものだった。
論理的脱構築とは、任意の経験論的システムで、それ自身の論理では制御=決定できない特異点を発見し、それを通じてシステム以前の差異空間へと遡行すること。また存在論的脱構築とは、現システムでは表現不可能なものを徹頭徹尾言語化し、哲学的な「固有名」を与えることで存在化していくことだ。
 他方、郵便的−精神分析的脱構築について、デリダは「 偉大な哲学者、それはいつも、ちょっと大きな郵便局なのだ」という。郵便局は手紙を開けて声にしたり、理解することはしない。同様に哲学者もまた、過去の哲学者のテキストを読まず、ただ断片化された綴り字の群を結合させて配達しているにすぎない。
 それゆえ、郵便的脱構築では、フロイトの精神分析における「転移」、つまり無意識という郵便局に蓄積されたものの連結を応用して、意識の彼方の表現不可能なものを言語化していくことになる。デリダが通常の文体を捨て、暗号のような、詩的なテクストを採用したのは、こうした脱構築を自らに課すためだった、というのだ。
 若さと処女作のためか、ペダンチックな言辞があちこちに見られるし、フッサールの理解などにも疑問がないわけではない。だが、二〇世紀の終わりに、日本の団塊ジュニア世代によって、本書が書かれたことを、私たちは素直に喜ぶべきだろう。
 八〇年代初頭に出た、浅田彰の『構造と力』が、バブル社会の加速と崩壊を促したように、早熟な思想家の処女作は、著者の意図を遙かに超えて時代の行方を予言する。本書もまた、二一世紀における市場社会の“脱構築”を冷徹に予告しているようだ。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

今村仁司著『近代の労働観』岩波新書(週刊東洋経済,1999,1,16)

 「労働は人間の本質だ」という見方は、社会主義にしろ自由主義にしろ、現代の最も基本的な労働観である。
確かに生存のために行う労働は必要あるいは必然的なものだ。しかし、だからといって、人間の本質的な活動とはいえず、むしろ労働から「可能なかぎり解放されることこそ、人間のまっとうな在り方」だ、と本書の著者はいう。
 この見方を裏付けるため、著者は古代ギリシアやニューブリテン島のマエンゲ社会という、アルカイックな労働観を紹介する。両者に共通するのは「少ない生業の時間と余暇を享受する経験」こそ労働の目標である、との視点だ。
 だが、近代初期になると、商品経済や資本主義の興隆で、労働の地位は次第に格上げされ、逆に余暇は格下げになった。とりわけフランス革命後は、余暇と怠惰が徹底的に非難され、多忙と勤勉が圧倒的に支持されるようになる。
さらに十九世紀、サン・シモンらにより「人間の本質としての労働」観が確立されると、これが二十世紀にも継承されて、労働には「人生の意味 と一体となった喜びが内在している」という「労働の喜び」論に変ってしまった。
とはいえ、もともと労働とは「自由な行為」ではなく、「隷属的な行為」にすぎないから、労働者自身は自覚の有無にかかわらず「隷属性」を感じとり、それをなだめるために、遊戯、構築、好奇心、達成観など、種々の口実を持ち出す。特に現代では、他人からの評価が大きな意味を持つようになった。
 現代の消費社会では、商品は機能や有用性以上に、象徴的や記号的含蓄で買われているが、労働の「価値」もまた素材的要素以上に社会的評価に移っている。その結果、「 労働は、現実的な、あるいは象徴的な、社会的地位の顕示のための記号」となり、「ブランドと名声の高い企業」が好まれるようになった。これはかなり歪んだ労働観だ。
 そこで、著者は新たな労働観を求めて、マエンゲ社会における労働が、私的な生活行為だけでなく、公共的な判断にまで広がっていたことをモデルに、余暇の拡大とその公共化を提案する。
 今や生存に必要な労働は、最小限の「一日三時間」程度へと徐々に極小化しつつあるが、そうなれば「他人の評価を求める欲望は、虚栄心の発現から公的承認への欲望に変化」していく。この時、人間には初めて「共同の事物、公共的な事柄を思考し、公共的なものと自己との関係を構築し、それを公共空間のなかにに投げ出すといった行為」が可能になる。この方向を実現することこそ、新しい労働観だ、というのである。
 勿論、これには生産主義や労働主義の立場から反対の声も高まるだろう。だが、多忙と勤勉を縮小して「よく生きる」「正しく生きる」という正義の論理を求めることが、今後の私たちに委ねられた課題だ、とも主張する。
 本書の読みどころは、『労働のオントロギー』や『仕事』などの著作で、労働の本質を追求してきた著者が、虚栄心という新たな地平に辿り着いた点にある。だが、現代の労働観を古代モデルで変革しようとする提案は、まだアイデアの域を出ていないようだから、より具象的な思索を次作以降に期待したい。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

佐藤誠、A・J・フィールディング編著『移住と定住─日欧比較の国際労働移動』同文館(週刊東洋経済,1998,12,5)

 人口減少社会が間近に迫っている。もし人口の回復を望むとすれば、わが国は出生数の増加対策とともに、外国人の受け入れ枠の拡大を真剣に検討しなければならない。
 こうした問題を考えるうえで、日英欧の九名の学者が参加し、日英で同時に出版された本書は、まことに時宜を得た一冊である。一般に共著というと、統一性を欠いて散漫になりがちなものだが、本書では全体論と個別論が適切に分担され、細部の専門性がほどよく絡み合っているから、このテーマに関する必読書に仕上がっている。
 本書の第I部では、まず日本をめぐる国際労働移動の動向と議論の流れが簡潔に解説された後、中国人、マレーシア人、日系ブラジル人、在日韓国人の移動・定住状況やそれぞれの問題点が詳しく示されている。続く第II部では、ヨーロッパにおける最近の国際人口移動の動向とそれを見る視点がまとめられたうえ、ドイツ、西地中海、南欧諸国、英国での動向や政策の変化が一通り紹介されている。
 これらの著述の中で、現在、外国人労働者問題が顕在化しつつあるわが国にとって、もっとも参考になるのはドイツの事例(F・J・ケンペル担当)だろう。ドイツでは、七〇年代初頭に外国人労働者が大量かつ無秩序に流入した苦い経験を踏まえ、労働者の定住化を阻止し、順繰りに出稼ぎにくる輪番制を実現するために、中・東欧諸国との間にそれぞれ二国間協定を結び、綿密に制御された受け入れ政策を実施している。
 第一に建設業界向けの出稼ぎ労働者には、最大二カ年の労働許可を与え、ドイツ標準の賃金を支払うが、家族を同伴しないことを条件とする。第二にホテル・レストラン業界などには、職業訓練や言語取得を希望する労働者の労働研修による雇用を認める。第三に農業向けの季節労働者には、一年に三カ月に限って労働許可を与えるが、雇用主にも住宅、食事、交通費の提供と、現地水準の賃金の保障を義務づける。  第四に国境近くに住むポーランド人やチェコ人には、国境周辺区域内でドイツ人労働者が不足している場合に限って、通勤による労働許可を与える、といったものだ。
 以上のような業種・業態の差異や相手国別の条件を前提にした、きめ細かな対応こそ、わが国の外国人対策にも求められるものだろう。国際人口移動とはもともと個々の国情によって、歴史的、地理的、産業的な特殊性を持っている現象であるからだ。
 大変よくまとまった本だが、日欧の比較分析がないのが幾分もの足りない。日本では労働移動問題が議論の中心だが、ヨーロッパではむしろ移民や難民問題へ課題が移っている以上、両者の背後に潜む、微妙な差異を抽出することができれば、より全体的な展望がつかめたのではないか。
 同時に、理論的な分析においても、統一的な理論を短兵急にめざすのは疑問だろう。本書の中でも、何人かの論者が特定の学者の説にこだわって、その是非を細かく論じているが、生産的とはいいがたい。むしろ、最小限の共通性とともに、さまざまな多様性の所在を明らかにしていくことこそ、この種の研究に求められる姿勢だろう。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

G・S・ベッカー&G・N・ベッカー著、鞍谷雅敏ほか訳『ベッカー教授の経済学ではこう考える』東洋経済新報社(週刊東洋経済,1998,10,31)

 一九九二年のノーベル経済学賞を受けたG・S・ベッカー博士といえば、「他人に害を及ぼさない限り、個人の選択の自由を最大限に許容する経済・政治・社会環境が最も望ましい」とする古典的な自由主義に立ちながらも、差別、人的資本、時間配分、犯罪など、従来の経済学が 避けてきた分野に大胆な発言を行ってきた学者だ。
 一九八五年から、博士は夫人とともに『ビジネス・ウィーク』誌に定期コラムを寄稿してきた。その中から七八本を選んで訳出したものが本書である。
 このため、本書の内容は極めて多岐にわたり、規制緩和、民営化、労働市場、移民、学校教育、家族、差別、麻薬、カルテル、政府、税金、資本主義、国際貿易、株式市場、景気後退、人口爆発などにまで及んでいる。
 もっとも、その主張は頑固なほど一貫しており、経済、社会、政治のあらゆる分野で、国民一人ひとりの明確な目的意識に基づく選択(インセンティブ)と市場調整機能が最も重要だ、という点が繰り返し強調されている。
 とりわけ社会問題ではラディカルで、「対価を払えば、誰でも移民ができるようにせよ」、「麻薬が合法化されれば、犯罪と麻薬使用との関連は大幅に弱まる」、「貧困家族にバウチャー(授業料支払保証書)を与え、公立でも私立学校でも好きな学校で子供を教育できるようにせよ」といった具合だ。
 高齢化対策でも「中高年の就業率を高めるため、身障者手当てや公的年金の需給資格を厳しくせよ」、「公的年金を維持するためには、伝統的な賦課方式から、就業者が自ら口座に貯蓄して、その運用で年金をまかなう積立方式へ移行せよ」と提案し、他方、少子化対策では「企業に育児休暇の付与を義務づけることは、単身者や、子供がいなかったり、すでに大きくなった既婚男女に対する逆差別となるから、非効率で不公平だ」と主張する。
 こうした姿勢は国家や政府のありかたにも及び、「大きな政府は時代遅れ」、「大きな政府を潰せば汚職はなくなる」、「国家にとって最良の産業政策は何もしないこと」、「政府セクターが大きすぎ、納税者負担の高いスウェーデンは今後の手本にはならない」などと、小さな政府への移行を熱心に説く。
 さらに世界の将来についても「人口爆発の解決には、第三世界の経済発展と女性の教育が最も効果的な避妊法だ」と述べ、ついには「過去数百年、一見克服不可能と思えた経済的な危機も、創意工夫で予測もしなかったような解決策が見つけられたから、終末論などは取るに足らない」などと超楽観論を述べる。
 いずれのコラムも八〇〇語前後と短く、かつ一般読者向けに簡潔に書かれているから、専門的な論文を読むよりはるかに読みやすい。なるほどノーベル賞の受賞者ともなると、これほど単純な理論であらゆる社会問題への発言が許されるのか、と感心させられるほどだ。
 但し、短い分、断定的な結論が先行しがちで、いささか論証が粗い。が、そうした不満はより本格的な著作へと読者を誘うから、本書はベッカー思想への最適の入門書ということになろう。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

大沢真幸著『戦後の思想空間』ちくま新書(週刊東洋経済,1998,10,3)

 《戦後という時間の切り方で考えていくことに意味がある》のは《現在が戦前だからなんですね》と、著者の姿勢は大変挑戦的である。
 その理由として、著者は戦前と戦後の間に潜む、約六〇年間隔の対応を指摘する。例えば、戦後の日本国憲法公布(一九四六年)は、戦前の日本帝国憲法発布(一八八九年)の五七年後。サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結(一九五一年)は、日本が世界システムのメンバーになった日清戦争(一八八四年)の五七年後。東京オリンピック(一九六四年)は日露戦争(一九〇四年)の六〇年後。連合赤軍事件(一九七二年)は大逆事件(一九一〇年)は六二年後に相当する。
 さらにオウム事件(一九九五年)は大本教弾圧事件(一九三六年)の五九年後にあたるが、大本教とその二カ月半後の二・二六事件をセットにすると、これらは戦前のオウム事件ということになる。
 一九九五年と一九三六年の対応は決して《偶然の類似》ではなく、より《システマティック》に、二つの最終戦争──一九四〇年頃からの第二次世界大戦と、今さまざまに予言されている二〇〇〇年頃からの最終戦争──を前提にして導かれたものだ。二つの戦争の時間幅も凡そ 六〇年だから、《本当に対応しているのは、二つの事件ではなく、二つの期間》なのだ、と著者は強調する。
こうした視点を持ち出すのは、戦後の思想的な位置をより明確に示すためだ。例えば、敗戦から七〇年代までの「日本人」意識の変化は、戦前の「天皇の国民」意識の推移に対応しているし、七〇年代末から八〇年代末にかけてのポストモダンは、戦前の「近代の超克」運動に相当している。両者のの間にも、やはり六〇年の幅がある。
 とりわけ、八〇年代の「消費社会的シニシズム」の基盤であるJ・デリダの「脱構築」思想は、三〇年代にファッシズムに加担したM・ハイデガーの「自己−外−存在」に対応している。その結果、九〇年代の思想状況は、戦前のファッシズム期、つまり二・二六事件の直後に相当することになる。
 著者の着想はなかなか精緻だ。これが正しいとすれば、現代日本はいよいよ最終戦争に突入していく。その戦争とはハルマゲドンなのか国際経済戦争なのか。著者は明らかにしていないが、どちからといえば前者のようだ。
 ところが、現実の社会にその気配はほとんどなく、むしろ経済戦争の方が進行し、現在はすでに敗戦ともいうべき状況だ。とても最終戦争とよべる状況ではないが、もし最終戦争が起こるとしても、第三次世界大戦の可能性は早くても二〇〜三〇年先だろう。
 だとすれば、六〇年周期という説は単なる思いつきに終わる。というより、単純な時間的周期で社会変動を説明しようとするのが、初めから無理なのだ。どうしても主張したいのなら、社会・経済・心理的な背景をもっと構造的に説明する必要があるだろう。
 本書は現在最も注目を集めている若手社会学者が、三回の講演録に筆を加えたものだ。その分、超観念的な書き下ろしよりも、具体的で読みやすいが、それだけにまた、著者の長所と短所がはっきりと浮かび上がっている。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

M・ヴェールケ著・岡部仁訳 『未来を失った社会』青土社(週刊東洋経済,1998,8,22)

 人間社会はおそらく発展過程を駆け抜けるまえに、遅くとも駆け抜けたあとには崩壊する。そして、人間もまた地球という惑星から消滅する。──この極端な悲観論が本書の結論である。
 ブラジル生まれのドイツ人である著者は、約三〇年間社会学に取り組んできたが、最近では<社会学がばかばかしく思える>という。その理由は、社会学が人間生活の精神的な問題の解決には役立たないばかりか、逆に増幅しているし、理論と現実の間にも大きな乖離があるためだ。
 そこで、著者は、物理学のエントロピー理論を社会学へ応用せよ、と提案する。もともとエントロピー概念には二つの意味があり、一つは熱力学の「エネルギーの可逆性ないしは非可逆性を示す尺度」、もう一つは確率論の「秩序ないしは無秩序を示す尺度」である。このうち、社会科学にとって有効なのは後者で、とりわけ<閉鎖システムにおいては、最大の確率の状態へ向かうことによって最大の無秩序へ向かう非可逆過程が進行する>というテーゼは最適である。他方、エントロピーの対概念は<秩序構造の構築とたえまない分化発展>を意味するシントロピーだ、という。
 この立場から見ると、最近流行の「自己組織性」理論にも明らかに限界がある。いかなる社会でも、社会的エントロピーが働いている以上、社会的シントロピーを阻止しようとする動きが進んでいる。そこで、社会的システムの構造と機能を最適の状態に維持しつつ、変化する環境に適応していくには、つねに「社会的エネルギー」(専門化した知力と労働)を適切に消費する必要がある。
 この対応は、単純な社会システムならば自己組織性でこと足りる。だが、より複雑な社会になると、社会的エネルギーの消費がますます増加し、もはや自己組織性では対応できない。そうなると、必要なエネルギーを直接的・間接的な強制措置で調達する必要が生ずる。が、そのような強制措置をとったとしても、結局のところ、エントロピーは拡大していくというのだ。
 著者は以上の視点から、まず地球規模での社会的エントロピーの進行状況を展望し、続いて開発途上国と高開発国別にそれぞれの状況を凝視していく。ブラジルなど中南米地域については、開発問題の専門家としての緻密な分析力で、また欧州先進国については社会批評家なみの軽妙な描写力で、それぞれ問題の核心に迫っていく。
 その結果として見えてくるのは、環境破壊、大量貧困、戦争や紛争、病気や薬物、さらには都市的退廃や文化的破壊といった、文明から文化に至る全ての分野での崩壊現象である。
 エントロピー理論の社会科学への応用は、さほど目新しいものではない。だが、人類とその文化・文明の全てに適用しようとする著者の意図は大胆かつ壮大でもある。
 とはいえ、この理論は、地球単位、人類単位というマクロな現象にはふさわしいが、小さな国の細々した現象の分析には向いていない。マグロの解体には最適な出刃包丁も、刺身を作るには大きすぎる。やはり、学問の方法論は、分析対象の規模や性質に応じて適切に選ばなければならない、というのが基本だろう。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

竹内靖雄著『「日本」の終わり』日本経済新聞社(週刊東洋経済,1998,7,18)

 日本は社会主義の国だ、と著者はいう。その経済システムは日本型資本主義ではなく、日本型社会主義であると。
 社会主義とは「各人はその能力に応じて働き、その必要に応じて与えられる」というマルクスのスローガンを実践することだが、日本の社会はこの理想を、マルクスやソ連とは別の方法で実現してしまった。別の方法とは、国家や会社のような集団を通じて徹底した再配分を行い、負担できる人には負担させ、必要とする人には与えて、結果を平等化するというものだ。
 具体的にいえば、市場経済を否定しない、官が経済のゲームを管理する、規制で弱い業界や企業を保護する、国営企業や特殊法人を増やす、大蔵省が金融業界を統制する、福祉配給システムで平等化をめざす、「会社」という社会主義集団で雇用を維持し分配を平等化する、などというものだ。結局のところ、日本型社会主義とは「官が護持する社会主義」に「会社主義」をつけ加えたものだという。
 これまでのところ、このシステムは結構うまく働いてきたから、誰もが楽で得だと思ってきた。それはわが国が成長型の国であったからだ。
だが、今やわが国は人口減少社会に向かっている。若い人が少なくなり、生産性も低下していくから、福祉国家は維持できなくなるし、国債依存型の経済運営も不可能になる。成長が終わり、老化の道を歩み始めた社会では、官主導の再配分によって平等を配給しようとする社会主義はもはや成り立たない。
 そこで、「親方日の丸」号にしがみつき、皆で抱き合ったまま沈んでいくか、社会主義を捨てて自力で泳ぐかを選ぶ時がきた。「日本はこれからどうなるか」と日本を主語にして考えるのではなく、「自分はどうするか」と自分主体で考える時になった。これが、著者のいう“「日本」の終わり”なのである。
 この選択の結果、今後の日本は日本型社会主義を捨てて「個人本位の生き方」を基盤とした市場経済、つまり普通の資本主義へ進むしかない、というのが本書の結論だ。
 以上の視点で、著者は現代日本のさまざまな病根を縦横に腑分けしていく。その手際はまことに鮮やか、かつ辛辣でもある。だが、仕上がった料理が意外に大味なのは、調理法に問題があるからだろう。
 著者の主張を裏返せば、戦後の日本は資本主義と社会主義を折衷して世界にも稀な経済システムを構築し、それによって見事な成長をとげてきたことになる。それがうまくいかなくなったのは、単に人口減少、少子・高齢化で停滞型の国になったため、というにすぎない。
もしそうならば、今後の対応には、著者の主張する「普通の資本主義」への回帰の他に、1)人口の回復政策をとることで、これまでの折衷主義を維持できる社会環境を作り出す、2)人口減少社会にふさわしい、新たな折衷主義を作り出す、といった方向も考えられるはずだ。勿論、1)は不可能かもしれないし、2)の実現にもさまざまな困難がつきまとう。だが、弱肉強食の資本主義よりましかもしれない。
 いずれにしろ、今後の経済システムの選択とは、こうした多様な選択肢の優劣を冷静に比較することで、初めて可能になるのではないか。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

佐伯啓思著『現代日本のイデオロギー』講談社週刊東洋経済,1998,6,13)

 なぜ人を殺してはならないのか。神戸のA少年の提起した、この問いかけに、私たちは合理的に答えられるのだろうか。厳密には無理だが、もし答えるとすれば、「個人の好みや個人間の互酬性を越えた、絶対的な禁止がある」という仮説を、「信頼性」の高い口調で説得するしかない、とこの本の著者はいう。
 だが、戦後日本の「弱い父親」にその力はない。なぜなら、国家意識が希薄化し、特殊なイデオロギーに支配されているからだ、と著者は考える。そこで、イデオロギーとは《固定観念のように繰り返し現れ、そこにひとつの「正義」の感覚を植えつけてゆく観念や見取り図》だと定義して、現代日本に横行する、さまざまなイデオロギーを怜悧に解剖していく。
 例えば、最近の世論を主導する「改革」論については、鳩山由紀夫の「民主党 私の政権構想」をとりあげ、《市民主義=民主主義という理解そのものが疑わしい》とし、中谷巌の『日本経済の歴史的転換』、田中直毅の『新しい産業社会の構想』、K・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』についても、《産業主義テクノクラートと左翼的進歩主義の奇妙な結合》だと総括し、《 具体的で個別のことがらを、抽象的で大きなシェーマに置き換えてしまう危険》を秘めている点で、悪しきイデオロギーの典型だと断罪する。
 「進歩主義」については、F・フクヤマの『歴史の終わり』をあげ、アメリカニズムが社会主義に勝利したから、後者の正しさが証明されたというのは、あまりにも皮相な見方だとし、《古代も、中世も、封建社会ももたないアメリカ的近代》とは《進歩という歴史の連続性》とは所詮、無縁の国だと切り捨てる。
 「グローバリズム」では、「地球市民社会」論を説く坂本義和を《国家や国境を飛び越えた市民がありうるのか》と批判し、『新しい中世』の《国家にナショナリズムは必要ない》と主張する田中明彦には、《ナショナリズムの存在しない国家などというものはありえない》と反論する。
 「市場主義」でも、伊藤元重の『市場主義』、竹内靖雄の『国家と神の資本論』、笠井潔の『国家民営論』などを、市場主義による“反国家主義”だと見なし、むしろ問題なのは《グローバルな規模での市場化が、市場社会を果てしのない混乱の中に巻き込む》危険性の方だと指摘する。
 このようなイデオロギーに席巻されて、現代の日本では経済不安に脅えるあまり、早急な構造転換が必要だというムードにとりつかれ、守旧的な官僚機構への批判が沸騰している。これはまさに、山本七平のいう「空気の支配」に他ならないと、著者はいう。
 《八〇年代から、わが国の政治も経済も社会生活も、基本的にこの種の「集団の気分」を基調にしてまわっている》が、この「気分による支配」にいとも簡単に同調する精神こそ、現代日本の危機の本質だ、と結論づけている。
 さまざまなイデオロギーを縦横に切りさばく筆先はまことに鮮やかで小気味よい。だが、その結果として仕上がった料理が「気分の支配」という程度では、いささか物足りない。次作では、もっと問題の核心へ切り込んだ、著者独自の料理を期待したい。(現代社会研究所所長 古田隆彦)

河合隼雄著『日本人のこころのゆくえ』岩波書店(週刊東洋経済,1998,5,16)

 阪神大震災や地下鉄サリン事件から援助交際や中学生凶暴化まで、わが国では一九九五年以来、社会の根底を揺るがす大事件が続発している。こうした動きを、臨床心理学の権威である筆者は、どのようにとらえ、どのような処方箋を出したのか。本書はこの間に、月刊誌に発表された論文をとりまとめたものである。
 多様な現象に対し、筆者はその本質を鮮やかに腑分けしてみせるが、一貫しているのは、一つの原理やモデルにとらわれない柔軟性だ。大震災時に暴動・略奪が起きなかったことと政府の対応のまずさの間には、日本人の一体感的人間関係の功罪を見る。オウム事件では、非日常的な死の体験で日常を見直させる真の宗教と、便利や効率を求める科学信仰との差異を語る。夫婦の関係についても、「愛し合っている二人が結婚すると幸福になる」というのは「危険思想」だとさえ断言する。
 こうした柔軟性は、筆者の基本的な思想である父性原理、母性原理にまで及ぶ。父性原理とは主体と客体、善と悪、心と体などすべてを「切断する」もの、母性原理とはすべてを区別なく平等に「包含する」ものだ。
 いかなる社会も両方を共存させているが、ヨーロッパでは父性原理が優勢で、アメリカでは特に強い。一方、アジアでは母性原理が優位で、特に日本では与えられた「場」において強く働き、さまざまな功罪を生み出している。
 とすれば、今後の日本では、もっと父性原理を取り入れるべきだ。しかし、それは母性原理と取り替えることでも、両者の共存や統合を見出すことでもない。二つの間に立って、論理的には矛盾するものを抱えつつ、どうしようかと考えたり迷ったりすることこそ、「個性を持った生命体」の本質ではないか、と主張する。
 さらにこの延長線上で、筆者はユングやエリクソンを参考にしつつ、国際化時代に生きる日本人の生き方として「 ネットワーク・アイデンティティ」を提唱する。私という人間は唯一の存在であるものの、それを支えているのは「 唯一」の自己ではなく、多様な「ネットワーク」である、という考え方だ。
 ネットワークといっても、家族や友人との関係ではなく、あくまでも「自分の心のなか」の多様性だ。その中の一つが、時には中心的役割を担う場合もあるが、決して恒久的なものではなく、常に流動していく。こうしたアイデンティティの提唱こそ、日本人が世界に対して貢献しうる、一つの道ではないか、という。
 硬直した思考を排して、無意識の動きまでも考慮した立場から、現代社会のさまざまな問題に柔軟に対応しようとする筆者の姿勢は大変貴重である。だが、理念や方向に比べて、臨床面での提案となるといささか弱い。いじめ対策には「真の関係性」の回復が必要だとか、援助交際は「たましい」を傷つけることを理解させよ、といっても、「真の関係性」や「たましい」そのものが疑われている時代にはほとんど無力だろう。
 キレル若者や売春コギャルだけでなく、世の人々が全体として問い直し始めているのが、人間と社会の根源的なあり様である以上、こころと集団の本質的な関係をもっと追求すべきではないか。(現代社会研究所所長 古田隆彦)


Copyright (C)Gendai-Shakai-Kenkyusho All Rights Reserved.
TOP INDEX