人口減少社会を生きる(連載コラム)
TOP INDEX
現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY
 
   このコラムはNECフィールディング株式会社・広報誌「ふぃーるでぃんぐ」(2008年)に連載されたものです。同社に御礼します。


第1回・人口減少の背景を探る(現代社会研究所所長 古田隆彦)

「少産・多死化」で人口が減る

日本の人口は二〇〇四年にピークを超え、すでに減り始めています。政府機関の予測では、二〇四〇年代に一億人を割り、二一世紀末には六〇〇〇万人、最も低い場合には四〇〇〇万人まで落ちていくそうです。

このため、政府や経済界では出生数の増加や移民の受け入れなど、さまざまな対策を打ち出していますから、多少の回復は可能でしょう。だが、すべてがうまくいったとしても、実際に増やせるのは、二〇五〇年までに一〇〇〇万人程度です。

とすれば、二一世紀の日本は間違いなく人口減少社会となります。これに伴って、日本社会のしくみも、一九~二〇世紀のような右肩上がりから、右肩下がりへ移行していくことになります。

なぜ人口が減り始めたのか、マスメディアでは「少子・高齢化のためだ」ときめつけています。果たしてそうなのでしょうか。
人口の増減は、海外との転出入がない限り、出生数と死亡数で決まります。出生数については、少子化でいくらベビーが減っても、ゼロにならない限り人口は増え続けます。また死亡数についても、高齢化で寿命が延びるにつれて亡くなる人が減ってきますから、やはり人口は増えるはずです。

にもかかわらず、人口が減るのは、生まれてくる人より、亡くなる人が多くなってきたからです。少なくなった出生数を、多くなった死亡数が追い越していく。つまり、人口減少の原因は「少子・高齢化」ではなく、「少産・多死化」にあるのです。

人口減少は初めてではない

「少産・多死化で人口は減る」という事態は初めての現象ではありません。日本の歴史を振り返ってみると、人口は幾度か停滞したり減少しているからです。
さまざまな推計値を重ねてみると、旧石器時代後期、縄文時代後期、平安~鎌倉時代、江戸時代中期などは、いずれも人口が停滞あるいは減少した時期であった、と思われます。どうしてそうなったのか。それは「人口容量(キャリング・キャパシティー)の限界」に突き当たったからです。

人口容量というは「一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ生息できるか」を示す生物学の用語です。この容量が一杯になると、原生動物から哺乳類まで、ほとんどの動物は生殖力の低下や共食いなど、個体数(動物の数)の抑制行動を示し始め、容量に確かな余裕が出るまで続けます。

人間の場合、さすがにそこまではしませんが、動物である以上、生殖能力や生存能力の低下が進むとともに、避妊、中絶、結婚減少などを行って、人為的な抑制を行います。

もっとも、人間は抑制だけに終わるのではありません。他の動物と違って、自ら人口容量を増やそうとするからです。文明の力を利用すれば、環境をある程度変えることができますから、人口容量は「自然環境×文明」で決まることになります。

実際に日本人は、いくつかの文明を利用して、日本列島の人口容量を増やしてきました。旧石器文明で三万人、縄文文明で二六万人、粗放農業文明で六五〇万人、集約農業文明で三三〇〇万人程度であったと推定されています。この容量の上限までは、人口は増え続けますが、上限に達すると、停滞あるいは減少することになります。

加工貿易文明の壁

とすれば、今回の人口減少もまた人口容量の壁に突き当たったからだ、と考えることができます。どのような壁かといえば、加工貿易文明の壁です。
現代日本の人口容量は、一億二八〇〇万人です。これは江戸時代の後期以降、欧米伝来の科学技術を応用して作り上げた約七五〇〇万人を基礎に、工業製品を高く輸出して、食糧・資源を安く輸入するという加工貿易で、約五三〇〇万人を上乗せしたものです。

だが、それが今や頭打ちになってきました。工業生産国の増加で工業製品は安くなり、農業・資源生産国の減少で食糧・資源は高くなる、という国際環境に変わってきたからです。こうなると、一億二八〇〇万人の容量を維持するのが精一杯で、これ以上の拡大はもはや困難な状況です。

そこで、日本人もまた、他の動物と同様に人口の抑制行動を始めました。平均寿命の上昇をあきらめ、ベビーの出産も抑え込もうとします。その結果、死亡数は次第に増加し、出生数も減少して、「少産・多死化」となり、人口を減らし始めているのです。

人口減少の背景を追及していくと、「少子・高齢化」という現象をはるかに超えて、現代社会の曲がり角という、さらに大きな要因に行き着くことになります。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング2008年105号

第2回・人口減少社会のゆくえを探る(現代社会研究所所長 古田隆彦)

三つの進路は正しいか?

人口減少の背景を巨視的にとらえてみると、一億二八〇〇万人という人口容量の壁が浮かびあがってきます。そこで、この壁にどう対応すべきか、最近のマスメディアでは、いくつかの方向がとりざたされています。

第一はこの壁をなんとか突破して再び人口を増加させ、社会を成長・拡大に戻そうというもので、経済学者やエコノミストの多くが提唱している、「アップライジング」や「アップサイジング」という方向です。

だが、工業製品を高く輸出して、資源や食糧を安く輸入するという国際環境がすでに崩れはじめている以上、それに変わる対策を打ちだすには、かなり時間がかかりますから、すぐに突破するのは無理でしょう。

そこで第二の方向として、人口が減りはじめた以上、それに応じて社会や経済も縮小しようという主張が出てきます。いくつかの新聞が唱える「ダウンサイジング」や「シュリンキング」、あるいは都市計画学者が提案する「コンパクト化」といった方向です。

一見妥当な目標に思われますが、人口が減っても、社会資本はもとより生産設備や生産ノウハウはなお残っていますから、一億二八〇〇万人の社会規模をあえて縮小する必要性があるとは思えません。

第一、第二が無理だとして、最近急に勢力を伸ばしているのが第三の方向です。一億二八〇〇万人のラインをそのまま維持しようというもので、人口学者の多くが唱える「静止人口目標論」、環境学者が提唱する「サステナブル社会」、マーケティング関係者が宣伝する「LOHAS(健康と持続性に配慮した生活様式)」などです。

いずれも地球環境に見合った、優しげな方向にみえますが、人口動態でみる限り、やはり実現は困難です。静止人口を持続するには、生まれた分だけ死んでもらい、死んだ分だけ産んでもいいという、過酷な条件に従わなければならないからです。これは深沢七郎が小説『楢山節考』で描いた、姥捨てと間引きの世界そのものです。

とすれば、三つの方向はいずれも見当違いではないでしょうか。

歴史の先例に学ぶ

歴史を振り返ってみますと、第四の方向が浮かんできます。それは、一億二八〇〇万人の人口容量を、減っていく人口でもっと活用しようとするもので、「コンデンシング」あるいは「濃縮社会」というべき方向です。

実をいうと、一つ前の人口減少時代には、日本でも欧州でも、この方向を採ることで、密度の濃い社会を創り出しています。例えば江戸時代中期の日本では、一七三〇年前後に約三二五〇万人でピークに達した人口が、一七九〇年前後に三〇〇〇万人を割り、一八〇〇年ころまで停滞しましたが、農民の収入はむしろ増えています。既存の農地や家族労働の効率化、つまり生産性を向上させたため、一人当たりの実収石量が一・〇二石から一・二三石へ二〇%も上昇したからです。

中世末期の英国でも、一三四〇年の三七〇万人から一四四〇年に一六〇万人へ、一〇〇年で四〇%も人口が減りましたが、労働者の実質賃金は約二倍に伸びました。少なくなった農民が残った農地や生産用具を活用して、生産性を大きく伸ばしたからです。

コンデンシング社会へ向かって

今後の日本も同じです。人口は減っても、工場設備や製造ノウハウは残っていますし、ロボットやパソコンで生産性を上げる手段はいくらでもありますから、生産力は容易に維持できます。現在のGDP(国内総生産)約五〇〇兆円を持続すれば、一人当たりのGDPは二〇二五年には現在の一・〇七倍、二〇五〇年には同一・三四倍に増えていきます。

それだけではありません。歴史の先例が示しているのは、こうして生まれた余裕を巧みに活用し、よりコンデンシングな社会を作りあげるという方向です。それによって、日本は豊穣な〝化政〟文化を、英国は華麗な〝ルネサンス〟を開花させ、それぞれ次の文明を創造する地盤を整えていったのです。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング)2008年106号

第3回・人口減少社会の生き方・働き方 (現代社会研究所所長 古田隆彦)

人生の仕切りが変わる

人口減少社会が進むにつれて、私たち一人ひとりの生き方や働き方にも、さまざまな変化が現れてきます。亡くなる人は次第に増加しますが、平均寿命はなお伸びていきますから、人生の仕切り方が大きく変ってきます。

これまでは、〇~六歳を「幼年」、七~一四歳を「少年」、一五~三〇歳を「青年」、三〇~六四歳を「中年」、六五歳以上を「老年」とよぶのが一般的でした。この年齢区分は、平均寿命が七〇歳前後であった、一九六〇年ころの人生観に基づいています。

ところが、二〇〇七年の平均寿命は、女性が八五・九九歳、男性が七九・一九歳です。平均寿命は〇歳児の平均余命ですから、六五歳の人であれば、女性は八九歳、男性は八四歳まで生き延びます。つまり、「人生八五~九〇歳」時代がすでに始まっているのです。

そうなると、過去の区分はもはや通用しません。寿命が一・二~一・三倍延びたのですから、上方にシフトさせて、〇~九歳を「幼年」、一〇~二四歳を「少年」、二五~四四歳を「青年」、四五~七四歳を「中年」、七五歳以上を「老年」とよんだほうが適切です。

一見、奇異に感じられるかもしれませんが、それは従来の常識にとらわれているからで、素直に世の中を見渡せば、この区分はすでに通用しています。一七歳の高校生はもとより二四歳のフリーターやニートたちも、その意識は少年のままです。四〇歳で青年会議所を卒業したはずの男女も、四四歳くらいまでは青年の意識を引きずっています。さらに近ごろの七〇歳は体力、気力、知力とも旺盛で、老人とか高齢者とよばれることにかなり違和感を覚えています。世の現実はすでに新しい区分へ近づいているのです。

生き方が変わる

年齢区分が変われば、生き方も変わります。二〇代前半までは、複雑化した産業社会に適応できるように、大学院や専門学校などで、より専門的かつ実践的な職業教育を修めなければなりません。他方、六五歳を越えても、もはやハッピーリタイアメントはありません。少なくともあと一〇年、つまり七五歳前後まで現役を続けることが必要です。一つの職場を退いたとしても、別の職場でなお現役を続けていくことが求められます。

それを実現するには、若い時から摂生はもとより、鍛練や学習も心がけなければなりません。最も多忙な四〇~五〇代でも、一定の時間やお金を将来の能力拡大のため、積極的に投資していくことが必要です。

例えば、最近増えている大学や大学院への社会人入学も一つの手でしょう。あるいは、放送大学や各種の社会教育施設でも、知的能力はかなり更新できます。さらには、木工、陶芸、修理、園芸などの職人的能力や、ヨガ、気功、太極拳、鍼灸などの健康法や教授法を磨くという方法もあります。

結局のところ、一つの組織内の昇進だけでなく、そこを離れて一人になった時でも、自分なりの仕事に取り組んでいける、そんな能力を貯えておくことです。それには、知力、体力ともに、フローとストックの巧みなバランス感覚が求められるでしょう。

多毛作人生をめざして

こうした能力開発ができれば、六五~七四歳は人生の中で最も実りある時期になります。今後の社会では、この年齢層の中から、文化や芸術や情報を創造する、新たなリーダーが次々に登場してくるでしょう。

一つ前の人口減少社会であった江戸中期もまた〝生涯現役〟を実現させた社会でした。下総佐原の名主、伊能忠敬は、五二歳で家督を譲った後、西洋天文学を勉学し直し、五六歳から七二歳までの一六年間、全国の沿海測量を行って、わが国最初の実測地図「伊能図」を編集しました。京都町奉行所の与力、神沢杜口も、四〇歳で退職した後の四〇数年間に『翁草』二〇〇巻など膨大な著作を著し、江戸中期屈指の随筆家となりました。

三〇歳代後半で葛飾北斎を名のった浮世絵師は、九〇歳で没する直前まで「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」などの傑作を描きました。同じ時期に四〇歳で戯作者と認められた曲亭馬琴も、八二歳で没する直前まで『南総里見八犬伝』などの名作を発表し続けています。

江戸中期の人々は、人生の前半を筋肉的労働に、後半を頭脳的労働に従事する、極めて理想的な生涯現役制度を生み出していました。今風にいえば、まさに「多毛作人生」です。

今後の人口減少社会でも、中高年に活躍のチャンスが増えてきます。これを活かすには、若い時から、お金の貯金だけでなく、体力と知力の貯金も同時に積み立てることが必要です。二一世紀の日本人にとって望ましい人生とは、こうした貯蓄を使いながら、与えられた人生を、最後まで現役として生き抜いていくことではないでしょうか。

「ふぃーるでぃんぐ」(NECフィールディング)2008年107号


Copyright (C)Gendai-Shakai-Kenkyusho All Rights Reserved. TOP INDEX