現代思想研究室・東京新聞・北海道新聞(古田隆彦・書評)
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現代社会研究所 RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY  

この研究室では、現代思想や社会・人文科学の基礎的研究をしています。古田隆彦が寄稿した書評を転載します。
東京新聞=中日新聞、北海道新聞・書評(2001〜)


東京新聞=中日新聞(2001年〜)、北海道新聞(2017年〜)の書評を再掲します。


『いじめをやめられない大人たち』木原克直著・ポプラ新書

会社の昼食時に1人だけ孤立。あいさつしても誰からも無視。アパートのルール違反を指摘して退去圧力。ママ友グループ離脱で愛児批判が殺到、・・・近ごろ、職場や近隣では、様々な「大人のいじめ」が頻発している。

先年、羽交い締めで激辛カレーを食べさせられた男性教諭の一件が反響をよんだ。これをきっかけに「いじめ」に注目したNHKのデイレクターが、被害者や加害者、傍観者、関係者などを取材し、問題の根源と対応策を提案したのが本書だ。

「大人のいじめ」は日本だけの問題ではないらしい。英国では「職場いじめ」が社会問題化し、米国では職場いじめ問題研究所が4年ごとに大規模調査を行い、韓国では対応不備の経営者に禁錮刑や罰金が科せられる法律が制定された。

いじめはなぜ起こるのか。米国の研究者は、@加害者の多くが何か満たされない感情を抱き、他者攻撃で埋め合わそうとするA企業や職場の怠慢もいじめ加害者を助長させるB社会の根本的な原因としてあまりにも個人主義的な社会になった―などをあげている。

「大人のいじめ」は犯罪にならないのか。暴力やけがなら傷害罪、虚報なら名誉毀損(きそん)罪になるが、いじめ自体を罰する法律はない。2019年制定の「改正労働施策総合推進法」でも企業内パワハラの調整だけだ。

解決方法の一例として、本書では、無料で相談できる「個別労働紛争解決制度」をあげる。全国379か所に設置されている「総合労働相談コーナー」で助言とあっせんをしてもらうことだ、という。

歴史を振り返れば、村八分や仲間はずれは、社会集団に付きまとってきた現象だ。それが大きく問題化したのは、個人意識の拡大のせいかもしれない。本書に挙げられた被害例は全て女性である。女性の社会進出が進んだ結果、男性社会では「まあまあ」と黙認されてきたことが、異常だと気付かされたのではないか。

現代社会に見合った対応策とは何なのか。本書の問題提起は貴重だといえよう。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)



『子育て罰 』末冨芳、桜井啓太著・光文社新書

「子育て罰」って、子どもを育てるのが悪いってこと? いや、そうではない。子育てすることを罰にしている、この国の政治のありよう、社会のしくみと慣行、そして人々の意識のことだ、と本書は言う。

日本の子育て層は、年金・社会保険料の負担が上の世代より高いうえ、子どもを育てて社会に貢献しているのに、児童手当や授業料無料、保育の提供などの恩恵を十分に受けていない。子どもを産み育てるほど生活が苦しくなり、低所得層はもとより中高所得層にも厳しい。このままでは、ますます子どもの生まれない国になる。

なぜこうなったのか。直接的には一貫性のない子ども政策のせいだ。時々の政権によって児童手当の水準や教育の無償化などが揺れ動いてきた。日本の所得再分配政策はもともと低所得層、特に子育て中の働く層やひとり親世帯に不利だ。その背後には、子どもの価値の変化がある。「子ども天国」と呼ばれていた明治期から、現代の「子育て罰」社会に至るまでに、子どもの価値や意味は大きく変わった。明治初期には、地域コミュニティという「公的領域」の中で大人に慈しまれて助け合い、成長し合う姿であったが、近現代になると、女性は家庭へ、子どもは学校へと囲い込まれ、「公的領域」から排除されてしまったからだ。

どうすればいいのか。政府が取るべき政策は、所得に関わりなく、あらゆる子どもに基礎的な児童手当を支給し、高校無償化や大学無償化の所得制限を緩和する。特に低所得世帯には児童手当と教育の無償化を手厚く加算していくことだという。

そこで著者は多数の国会議員との対話を紹介しつつ、国民の多くが「子育て罰」解消の「声」をあげ、賛成派への「投票」拡大を提案する。実現できれば、近い将来「子育て罰」はなくせる、と断言する。

果たして投票は解消の選択へ向かうのか。有権者全体の価値観にかかっていると思うが、出生数減少の詳しい背景分析と、回復策の具体的な提案については、人口減少社会を考える上で貴重な一冊だ。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)



平成都市計画史』饗庭伸著・花伝社

町に集まる人々が好き勝手に家を建てたとしたら、多分野放図な街が生まれるだろう。そこで、お役所が先頭に立ち、街の形を作ってきた。都市計画という公的ルールである。

日本の都市計画は明治期に始まり、大正期の旧・都市計画法を経て、昭和中期に新・都市計画法として整備された。その後、人口増加と経済成長に支えられて成熟段階へ達したが、平成期に入ると、さらなる進化を遂げた。

本書では、平成三十年間の推移を多角的に振り返る。バブル経済の崩壊、人口減少の進行、災害の頻発など、戦後の社会が大きく変わる中で、行政、住民、市場という主体は、住宅、景観、災害、土地利用にどのように関わってきたのか。

住宅では公営住宅の民営化と困窮者向けセーフティネツトの制定で市場が拡大し、景観では住民主導が先行したものの、先行きはなお不透明。災害では防災都市の実現に向けて、行政と住民が常に動員される仕組みが作られ、土地利用ではコンパクトシティ・プラス・ネットワークという目標が新設された。

計画を遂行する主体も大きく変わった。地方分権の進展で市町村の立場が強まり、コミュニティ思潮の浸透で住民の対応力が上昇し、規制緩和と特例措置区域の拡大で市場の活性化が進んだ。

住民と市場の立場が強化された結果、タワーマンション開発、歴史的町並み保存、商業地活性化、災害からの復興、工業地拡大、耐震改修促進などを民間で主導する力が育ってきた。「革命なき民主化」の到達点だ、と本書は称える。

そのうえで、令和以降を「民主化と、その先にある原野化」と展望する。しばらくは住民と市場の立場が拡大するものの、やがては人口減少の影響で両者も縮んでいく。街づくりは不要になるから、「よりよい原野」をめざせという。

この展望には賛否が分かれるかもしれない。だが、都市計画史の詳細な紹介と主導力の変化に関する緻密な分析には極めて説得力がある。都市や建築の関係者はもとより、住宅・不動産産業に関わる人たちにも必読の一冊である。
(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)


就職氷河期世代の行く先』下田裕介著・日経プレミアシリーズ

コロナ禍で「就職氷河期」の再来が強く懸念されている。本書では、元々の「就職氷河期世代」を1970〜82年生まれと定義し、今や30代後半〜50歳に達した、彼らの現況と将来を詳細に考察する。

主な発生要因は就職市場での需給ギャップ。バブル経済が崩壊した90年代初頭以降、収益悪化で大卒の求人が大幅に抑制されたうえ、大学の定員緩和で卒業者の数が10年間に10万人ほど増加したためだ。さらに非正規雇用の拡大も採用減を加速させた。

30年後の現在、40代が中心の「働きざかり世代」となったが、その多くは将来への不安から貯蓄を増やして消費を抑制し、世帯構造でも未婚者や夫婦のみを増加させている。このため、40〜50代の引きこもり族を70〜80代の親が支えたり、逆に未婚者が親の介護のために生活が困窮して「生活不安定者」となるケースも増えている。就職氷河期世代全体で111万人に及ぶという。

今後、この世代が高齢化すると、「貧困高齢者」が増えて135万人に達する。政府の生活保護費も増額を余儀なくされ、世代全体向けで27兆円を超えると推定する。

どうすればいいのか。政府は本格的な支援策として2003年の「若者自立・挑戦プラン」以来、さまざまな施策を打ち出してきた。だが、同世代の実情とズレており、ほとんど効果が見られなかった。

そこで、本書では「お寺」とコラボした就業支援事業や、住まいを提供して就業・自立を支援する事業など、当事者の負担を和らげる支援策を紹介している。あるいは、高等教育の大衆化に見合った、大学と企業が共同開発する「働きながら学ぶプログラム」や、企業の声を反映した職業訓練・人材教育なども必要だと提言する。

当事者の立場に一層寄り沿った施策へ重点を移せ、という提案は極めて説得性が高い。そのうえで、「第2就職氷河世代」が憂慮される昨今を考えると、終身雇用制や年功序列制はもとより、社会保障制や学歴偏重主義もまた、根底から見直す時期にきているのではないだろうか。
(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)


リスクの正体』神里達博著・岩波新書

猛威を振るう新型コロナウイルスをはじめ、近年、私たちを襲うリスクは極めて多様だ。

MERS(中東呼吸器症候群)、はしか、豚熱(豚コレラ)などの感染症、火山噴火、地震、台風、洪水などの自然災害、ドローン落下、AI(人工知能)暴走懸念などの新技術関連、食糧不安、テロ、少年犯罪、高齢化、老朽インフラ、品質管理不全などの安全安心問題と、実にさまざまだ。

これらのリスクについて、全国紙に寄稿された連載コラム(2014年秋〜20年春)を、ジャンル別に再構成したものが本書だ。専門的な説明も多いが、極めて平易な文章で書かれている。

なぜリスクが高まったのか。一つは物質的に充足され、些細(ささい)なリスクにも敏感になったこと。もう一つは近代社会の諸活動が環境汚染や巨大事故など新たな不都合を生み出したこと。この二つがリスクの正体だ。

個々のリスクについて、どちらが支配的なのか、科学的な根拠が求められるが、「科学」で使う言葉自体は、世界のありのままを表現する知的ツールではなく、現時点における人類の「認識の限界」を表しているにすぎない。だから科学の限界が即、不安の始まりになってしまう。

そもそも科学とは、物事を単純な要素に分解することで、現象を明らかにする試みだ。要素が互いに作用し、全体が部分に還元できないような集合を「システム」とよんで、学際的な検討も進んでいるが、複雑に絡み合うリスクを適切にマネジメントするのは、依然として難しい課題だ。

どうしたらいいのか。科学の発展には期待すべきだし、リスク対応への個々の取り組みも重要だ。同時に、私たちに与えられた本源的な条件(自然的、社会的な環境)と折り合いをつけていく。そうした心構えを忘れないことが大切だ、と著者はいう。

さまざまなリスクを見定める視点は、科学的な常識論を大きく超えて、人類の精神史にまで及んでおり、目指すべき未来社会への展望を示唆している。文系理系の垣根を越えて、知的好奇心を揺さぶる一冊だ。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)


移民の経済学』友原章典著・中公新書

日本にいる「移民」の数は250万人を超えるという。移民という言葉には正式な定義がないため、「海外から来て、長期的に住んでいる人」というほどの意味だ。

今後、この数が急増すると予測されるのは、日本政府が入管難民法を一昨年に改正し、5年間で約35万人の外国人労働者の受け入れを見込んでいるからだ。日本人の雇用や賃金はもとより、さまざまな分野への影響が懸念されている。

いったい、どのような利害得失があるのか。本書では、海外の経済学から最新の研究成果を引用しつつ、雇用や賃金、経済成長や物価、貿易や直接投資、租税や社会保障、科学技術、治安や文化などへの影響を展望し、日本での対応を考察しようとする。

だが、簡単にはいかない。経済学の分析では、現実をモデル化する過程で種々の仮定を設けるから、利害についての評価は大きく分かれる。移民が市民(受け入れ国民)の賃金に与える影響は、分析結果で大小さまざま。世界の国内総生産(GDP)についても、途上国から先進国へ移住する労働者の生産性上昇で増えるものの、増加額については仮定次第で大きく増減する。

人手不足への影響も業種によってまったく異なる。受け入れ国民の財政負担でもいろいろな仮定があるから、本当のところはよくわからない。社会や制度に与える影響では、移民の社会的孤立を引き起こす可能性が指摘される一方で、国家の多民族化と国民相互の不信感は無関係だとの説も多い。

著者も認めるように、現在の経済分析には限界がある。だが、これまでの研究成果で明確になったのは、移民によって受け入れる国民の全てに利益があるわけではなく、生活が改善する人もいれば、悪化する人もいるということだ。それゆえに移民問題では、両者のバランスを十分に理解したうえで建設的な議論が必要だという。

どうやら一筋縄ではいかない難題のようだ。移民政策に関わる立法・行政関係者はもとより、言論人や研究者にとっても必読の一冊だろう。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)

なぜ人は騙されるのか』岡本真一郎著・中公新書

オレオレ詐欺が増えている。警察庁の発表によると、昨年1年間の特殊詐欺の認知件数は1万6496件で8年前の2・4倍、過半数がオレオレ詐欺だという。

(だま)し現象」はそれだけではない。国会では大臣や官僚が詭弁を弄しているし、広告や宣伝でも不確かな情報で消費者を誘い込む。とりわけインターネット上では、SNSなどで、怪しげなフェイクニュースがまことしやかに拡散≠ウれている。

嘘だらけの世の中に、私たちはどのように対応すべきなのか。本書では社会心理学の視点から、騙されるメカニズムとその対策を解説する。

外部からの説得を受け入れる場合、人間の情報処理行動は、中身を吟味せず表面的な手掛かりで受け入れる「ヒューリスティック(発見的)処理」と、内容の当否を熟慮して受け入れる「システマテイック(体系的)処理」に大別できる。情報過多の現代では、どちらかに傾きがちで、それが騙される主な要因となっている。

こうした受け手を前提に、情報の送り手からは、広告・宣伝での数値誘導や要請技法、犯罪分野での特殊詐欺や詐欺的商法、フェイクニュースでの動機づけ推論や単接触効果など、さまざまなテクニックがきめ細かく展開されている。

悪質な「騙し」に乗せられないためには、何が必要なのか。まずは意識しない次元でのさまざまな影響を自覚し、熟慮したうえで思考や行動を修正すること。また意外な事実を突きつけられると騙されやすくなるから、反論にも触れて抵抗力をつけておくこと。さらには相手や第三者の視点に立って、どのように利用しようとしているかを考えることU等々が必要だという。

これらの対策は十分にうなずける。さらにいえば、情報技術の急拡大、年齢構成の上昇、中高年単身者の増加といった社会構造の激変によって、受け手の情報処理能力に格差が広がっている以上、職種や年齢など階層的な対応策も求められるだろう。

最もお薦めしたい若者や高齢層には、専門用語がやや多く読みづらい箇所もあるが、まさに時宜を得た一冊といえよう。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)

キャッシュレス覇権戦争』岩田昭男著・NHK出版新書

購買時のキャッシュレス化が急速に進んでいる。クレジットカードやデビットカードに、交通系電子マネーやスマホ決済サービスが加わり、現金決済が次第に減りつつある。本書では最先端の状況を紹介しつつ、その功罪を考察している。

日本は韓国、中国、米国と比べて大幅に遅れており、政府も強力に推進する。人口減少で生産性の向上が急務であり、実店舗等の無人・省力化、現金資産の見える化、現金流通の透明化による税収向上、支払いデータの活用による消費の活性化など、さまざまなメリットが期待できるからだ。この趨勢(すうせい)に乗って、IT企業はもとより通信、金融、流通などの業界がこぞって参入し、競争が激化している。

消費者にもさまざまな利点がある。「レジで小銭が不要」「現金持参が不要」「支払い記録が残る」「ポイントがたまる」など。

だが、欠点もかなり多い。「カードの紛失や盗難」「金を使いすぎる」「地方で使える店の少なさ」「資産や金の使い方が企業や国に筒抜けになる」などだ。

とりわけ重大なのは個人情報の流出。私たちの購買履歴はすでにビッグデータとして人工知能(AI)で分析され、企業のマーケティングに使われている。そうした企業の代表がグーグルなど米国のIT企業群「GAFA」だ。彼らは利用者の個人情報を根こそぎ蓄積し、強欲なまでに利益につなげようとしている。

それだけではない。蓄積した個人情報で一人一人の信用度をランク分けする「信用格差社会」の出現。さらには個人情報から思想信条を探り、国家に不都合な人間を排除する「データ監視社会」の到来も危惧される。

そこで著者は「必要なのは、われわれ消費者が、自分の身を守るために、どんな策を講じられるかだ」と問いかける。政府も検討しているが、消費者としての利便性と生活者としての尊厳性の、適切なバランスが求められる、ということだろう。

書名から予想される内容をはるかに超えて、より多くの読者にお薦めしたい一冊だ。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)

町を住みこなす---超高齢社会の居場所づくり』大月敏雄著・岩波新書

人口増加・経済成長時代の1973年、ある建築家が提案した「現代住宅双六」は、34年後の2007年「新・住宅双六」に変わってしまった。

前者では、右下の胎内を振り出しに.アパート、分譲マンションなどを経て、真ん中の「郊外庭付き一戸建住宅」で「上がり」。ところが、後者では中央から振り出して、放射状に六方向へ向かう。一番外側の「上がり」は、老人介護ホーム、親子互助マンション、外国定住、都心の超高層マンションなどだ。

二つの双六の間に起きた社会的な大変化は、人の寿命が伸びたこと、つまり「郊外庭つき一戸建て」の先に、高齢者の終の住処という、新たな課題が浮かび出たことだ、と著者はいう。

この変化に、住宅産業や公的機関は対応できていない。住宅企業の多くは、投資の高利回りを求めて、一度に同型の住宅を大量供給しているし、自治体や公社も、住宅政策がしばしば経済政策のテコ入れに利用されるため、時の政権の風向き次第でクルクルと変わる。

そこで、本書では「時間」「家族」「引越し」「居場所」という、四つの観点から豊富な事例をあげて、住居から町までの住みこなし′サ象をひも解き、町を作り変えるヒントを示す。

超高齢社会にふさわしい地域包括システムに見合うのは「可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることかできる」町だ。

永い人生で刻々と変わるニーズに応じ、ハードでは戸建から賃貸アパートまで、さまざまな住宅へ循環的に引っ越しができる。またソフトでは家族支援、地域互助、公的支援を使いこなしつつ、「住み慣れた地域」に住み続けられる。これを作り上げるには、一つ一つの建物を超えて、「住みこなせる町」そのものを目標にすべきだ、という。

人生百歳時代には、たどり方、連れあい方、しまい方も大きく変わる。町とは「住みこなす」ものか「住み捨てる」ものか、供給サイドはもとより、居住者自身が問われることになろう。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)

単身急増社会の希望』藤森克彦著・日本経済新聞社

日本国内では今、七人に一人が一人暮らしだ。二〇三〇年になると、五十代の男性で一・三倍、女性で一・五倍に増え、八十歳以上では男女ともに一・五倍を超える。背景には、年齢構成の変化に比例して単身者が増える「人口要因」と、未婚化や親子別居化などでその数が変わる「非人口要因」の、両面がある、と筆者はいう。

未婚化の進行で、四十〜五十代の単身予備軍も増えている。無業者の比率が高く、大半が親と同居して援助を受けているから、親が死ねば単身となり、たちまち貧困に陥る。

こうして急増する高齢単身世帯では、貧困率が高く、会話の相手も減少して、孤立死の比率も高まる。

どうすればいいのか。本書では「住宅手当制度」の導入、「地域包括ケアシステム」の構築、厚生年金の適用拡大、「ジョブ型正社員」という新しい働き方の採用などを、政府、コミュニティー、企業に向けて提案する。

そのうえで、今後の日本の社会制度を、従来の家族依存型やアメリカ的な市場依存型ではなく、スウェーデン風の政府依存型へと転換し、「ある程度大きな政府」をめざすべきだ、と主張する。政府の無駄を徹底的に排除しつつ、社会保障制度を強化して、適切な所得再分配策で「支え合う社会」を構築すること、これこそが「希望」なのだ、という。精緻な分析と視野の広い提案は、まさに単身化対策の底本ともいうべき一冊だ。

四十数年前、経済人類学者のK・ポランニーは、家政(個人)を支える歴史的、社会的な制度として、互酬(地縁・血縁)、再配分(政府)、交換(市場)の三つをあげ、今後はこれらを巧みに組み合わせた「複合社会」へ進むべきだ、と述べていた。本書を読むと、長寿・単身化時代に生きる私たち一人ひとりにとっても、さまざまな社会制度の構築へいかに関わり、どのように活用していくべきか、個人的な対応力が問われることになろう。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)

少子化論』松田茂樹著・勁草書房

わが国の少子化対策が一九九四年に開始されてから、すでに二十年が過ぎた。その効果なのか、合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に生む子どもの平均数)は、二〇〇五年の一・二六から一一年の一・三九へと上昇した。だが、回復のペースは鈍化し、人口が維持できる二・〇七にはほど遠い。

出生率の増減は、主に「結婚している人の割合」と「夫婦間の子どもの数」で決まる。一九六〇年ころまでは後者が主要因だったが、その後は前者の影響が大きい。ところが、従来の政策は「女性の進出などによって出産・育児期にも共働きを望む人が増えてきたが、保育所不足や育休などの両立環境が十分でない」という、後者の視点で実施されてきた、と著者は指摘する。

実態は違う。「若年層の雇用の劣化により結婚できない者が増えたこと及びマスを占める典型的家族(評者注、夫は就業、妻は家事)という男女の役割分担において出産・育児が難しくなっていること」が昨今の主要因。

そこで、著者は政策転換として、若年層の雇用環境の改善、非正規雇用者の育休創設、子育て・教育の経済的負担の縮小、公教育の充実による家庭負担の軽減、仕事と子育ての両立支援、在宅子育て母親の再就職支援、祖父母との同居・近居支援、出生率回復の目標値設定などを主張する。

内外の豊富なデータに基づく、詳細な分析と網羅的な提言は、家族社会学や少子化対策論の到達点を示し、政策論としては十分に頷ける。だが、幾つ実現できるのか。政府や経済界の支援だけで果たして効果が現れるのか。

「産まれてくる子どもに今の時代で不足のない経済的な生活を与えられないと思えば、これから子どもを産む夫婦が出産を控えるのは当然」と著者はいう。ならば、人口が減ってもなお生活水準の落ちない、実現可能な社会像を堂々と示したらどうか。個々の支援策は大きな目標の中に組み込まれて、初めて効果を生むものだと思う。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)


世代間格差―人口減少社会を問いなおす』加藤久和著、ちくま新書

 世界中に広がる、若者の反格差デモ。貧富格差批判の背景には、世代間格差への不満が渦巻く。デモこそ少ないが、日本の格差も極めて大きい。

 どこに格差があるのか。著者によると、第一は政府に対する各世代の負担(租税、社会保険料)と受益(年金、医療、補助金、教育や公共事業の便益)の差。二〇〇八年で六十歳以上は四千万円の受益超だが、二十歳未満は八千万円の負担超で、生涯の差は一億二千万円を超える。第二は政府の抱える公債の累積負担、第三は労働市場での失業率の差などが主なもの。

 背景には少子高齢化、若者依存の年金制度、年功序列・終身雇用制、景気対策や公共事業拡大による財政肥大、経済成長の鈍化などが複雑に絡まる。問題の本質は、世代間の「損得勘定」ではなく、社会経済システムの「制度疲労」だ、という著者の指摘は的確だ。

 どうすべきかの提案も多岐にわたる。年金では基礎年金の税方式化や厚生・共済年金の民営・積立化、医療では保険内容の効率化や医療貯蓄口座の導入、雇用では新卒一括採用の見直しなどを求めている。

 財政運営ではバラマキ型需要拡大策の封印や消費税の引き上げ、人口対策では子ども手当ての積極化や選択的移民政策の採用、そして総合政策では格差の指標化、是正推進機関の新設、不利益世代による検証会議の発足なども必要だという。

 詳細かつ網羅的な提案であり、説得性は極めて高い。だが、ここまで間口が広がると、一つ一つを実現するのは容易ではない。政府諸機関の実行力には疑問が残るし、ポピュリズム迎合型の政党政治にも不安がある。

 世代間格差は社会・経済の変化でやむなく進む面もある。政府や企業が縮小に努めるのは当然だが、個人や家族の努力も必要だろう。血縁や地縁など互恵・互酬制を復興させ、公的な制度やシステムを補完させる道も考えるべきではないか。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)


無縁社会 無縁死℃O万二千人の衝撃』NHK「無縁社会」プロジェクト取材班編著、文芸春秋

 今夏、発覚した「消えた高齢者」事件は、現代日本の暗部を垣間見せた。それを予見していたのか、NHKは一月から「無縁社会」と題するシリーズを放送している。本書は、番組に関わった九人の記者や制作者が、四月までの取材の中から二十数例を紹介したものだ。

 都会の片隅で発見される無縁死の現場。相次いで報告される実態は、どれも悲惨で重苦しい。遺族不明や引き取り拒否の遺体は、自治体が「行(こう)旅(りょ)死亡人」として火葬にし、無縁墓地に埋葬する。

 これはもう異常事態ではない。都営の某団地では、一人暮らしが三割を超え、高齢者が多い。有料老人ホームや高層マンションに住む離婚者や非婚者も、死後の諸手続きをNPOに委託し、永代供養墓を生前契約する。

 無縁感は三十代にまで広がる。ツイッターでは「仕事がなくなったら、俺も無縁死」とIT起業家が語り、「無縁さん同士のネット縁≠ノ期待」と女性ライターはつぶやく。休職中のエンジニアも「ネット上のつながりだけが頼り」と漏らす。されど、頻繁に情報を交す相手とは、一度も会ったことがない。

 なぜこうなったのか。本書では未婚・晩婚・非婚・離婚の増加、少子高齢化の急進、経済環境・住環境の悪化、家族形態の変化などをあげる。

 しかし、病根はもっと深い。産業社会は家業を破壊し、福祉社会は家族や親族の相互扶助を衰弱させ、市場経済は自己責任を求め、情報社会は匿名性を高めた。戦後六〇余年、多少の豊かさと引き換えに、私たちは人間の絆や尊厳まで差し出したのかもしれない。

 どうすればいいのか。政府や行政に期待できるのか。血縁や地縁に戻れるのか。それとも、縁や絆を取り結ぶ、新たなしくみを創るべきか。本書もまた考えあぐねる。
自己決定権の問題だとか、有縁社会は煩わしい、と反論もあろう。だが、新たな問題点を提起するのが報道の使命だと思う。

(現代社会研究所長・古田隆彦・書評)


ワーキングプア時代』山田昌弘著、文芸春秋

 並みの生活ができない人が増えている。非正規の雇用者、零細な自営業者、大学の非常勤講師など「ワーキングプア」とよばれる人たちだ。背景には、一九九〇年代後半からの構造的な変化がある、と著者は考える。

 経済のグローバル化、IT化、サービス化などに、産業・雇用政策の規制緩和が加わって、非正規雇用が増え、伝統的自営業が衰退した。仕事や家族の多様化も進んだから、生活設計が「予測不可能」になっている。

 となると、セーフティーネットとして社会保障・福祉制度に期待が集まるが、残念ながら現在のそれは抜け穴だらけだ。生活保護費より低い最低賃金。非正規雇用者には出ない失業保険。老親の年金で暮らす壮年や、孫の年金を払う祖父母。正規と非正規の妻では国民年金保険料や遺族年金に大差が出る。受領年金の高低や同居子女の有無で高齢者の生活格差が広がる。夫婦とも正社員でないと育児休業は無理など、現制度は複雑で矛盾が多すぎる、と著者はいう。

 なぜなのか。現在の諸制度は、フルタイムで働けば十分収入が得られ、仕事や家族の将来も予測できた高度成長期の産物で、その後の社会変化に立ち遅れているからだ。

 そこで、著者は現制度を元から見直し、全国民に最低生活が可能な金額を給付する「ミニマム・インカム」、または課税最低限以下の収入者に一定割合で税金を戻す「負の所得税」を提案する。

 これらを基盤にしたうえで、保険料納付分をマイレージに換算し、蓄積分に応じて年金を払う「年金マイレージ制」や、子育て家庭に給付金を加増する「親保険」を上乗せる、というものだ。

 社会学者の大胆な提案には、公的保障のあり方、公平性、経過措置などで議論があろう。だが、社会保障専門家の改善案よりはるかにわかりやすい。今一番求められているのは単純明快で、誰にでも理解できる制度なのだ。
 

(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


『【お金】崩壊』青木秀和著、集英社新書

 日本政府の債務残高は約八三四兆円、地方財政の長期債務は約二〇一兆円で、重複分を差し引くと、現在の総計は約一〇〇一兆円に達する。

 この巨額債務の貸し手は、私たちの「貯蓄」、つまり、郵便貯金、銀行預金、簡易保険、損保保険、厚生年金、国民年金などの「個人金融資産」だ。それゆえ、政府への信頼が揺らげば、明治維新やアジア太平洋戦争終結の時のように、お金の値打ちは激減する。

 回避はできるのか。従来の経済学はお金の増やし方を教える「貸し手の経済学」にすぎないから、債務の返し方を考える「借り手の経済学」を作らなければならないが、その基本思想は、お金に「減価」機能を与えることだ、と著者はいう。

 なぜなら、この世に存在するあらゆる物体は、発生時から劣化し続ける「エントロピー増大の法則」に支配されているのに、お金だけがその支配から逃れているからだ。このため、お金はすべてのモノの上に君臨して、私たちに「お金がすべて」と思わせ、土地、株式、債権を投機目的で買う「手段」になる。さらにお金自体が投機の「対象」にもなって売買される。

 だが、お金で実際に交換される物的資源は有限であり、廃棄物を吸収できる自然環境にも容量がある。自明のことだが、拡大し続けることでしか自己維持を図れない「金融経済」は、この有限性に目を閉ざしている。

 不健全なしくみを変えるには、お金にも「劣化」してもらうしかない。ファンタジー作家のM・エンデが「お金は人間がつくったものです。変えることができるはず」といったように、「問題の根源がお金にあるなら、そのあり方を変えればよい」と著者は主張する。

 この指摘はまっとうだと思う。だが、まっとうすぎるだけに、実現はかなり難しい。社会・経済次元の変革だけでなく、私たち人間の中に潜む共同幻想≠打破する必要があるからだ。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


排除型社会』ジョック・ヤング著、青木秀男ほか訳、洛北出版

 子ども殺し、兄弟殺し、夫・妻殺し、幼児虐待、家庭内暴力からイジメ、校内暴力、起業家の経済犯罪まで、昨今の犯罪はまさに「何でもあり」だ。経済格差の拡大やワーキングプアの増加も、社会不安を増幅させている。一見とらえどころがないようだが根っこは同じだ。これらの背後には近代社会から「後期近代」社会への移行が潜んいる。

 著者によると、先進産業諸国では一九七〇年以降、「市場の力」でフォーディズムからポストフォーディズムへ生産様式が変わり、欲望を肥大させた消費者が個人主義と多様性を拡大させた。その結果、完全雇用と市民権で守られた「安定的で同質的な包摂型社会」は終わり、非正規雇用と不平等な能力主義の「変動と分断を推し進める排除型社会」が始まった。労働市場からの経済的排除、市民社会からの社会的排除、刑事司法制度などでの排除的活動が、社会の隅々に広がっている、という。

 排除型社会の犯罪は「相対的剥奪感」と「個人主義」が主要因だ。やむにやまれぬ「絶対的剥奪感」からではなく、「小さな差異」に過敏になった人々が、家族や地域よりも自分を過大視するあまり犯罪に走る。

 この病理をいかに乗り越えるか。完全雇用、核家族、コミュニティー、福祉国家などで守られた一九五〇年代へ戻ろうというのはノスタルジーにすぎない。そうではなく、後期近代の課題は「相対的剥奪」を消すために、真の能力主義と多様性を受容できる社会への移行をめざすことだ。それを実現するには、さまざまな問題を国家や専門家に任せないで、あらゆる市民が民主的な議論と評価を行える、相互協力的な市民権、つまり「リベラル民主主義」を打ち立てていくしかない、と著者は力説する。

 対策の方向については賛否が分かれるだろう。だが、現代社会の危機に真正面から取り組み、克服の方向を懸命に模索した大作として、学生や社会人にも広くお薦めできる。上梓に努力された翻訳者と出版社に改めて敬意を表したい。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


ドイツ病に学べ』熊谷徹著、新潮選書

世界三位の経済大国、ドイツは今「構造的な病に苦しんでいる」と滞独十六年の著者はいう。一九九〇年代半ばから経済成長率が低下し、二〇〇五年には〇・九%まで落ちた。財政赤字の対GDP比率は五年連続で三%を超え、失業率も十二年間連続で一〇%を超えている。
 
最大の原因は高い労働コスト。賃金水準が高い上、年金や健康・失業・介護保険の企業負担も高く、時代遅れの雇用規制も多い。このため、多くの企業が生産拠点を、労働コストの安い中東欧や中国へ移し始めている。戦後のドイツが、市場競争重視の「アングロサクソン型資本主義」に対抗して生み出した「社会的市場主義」が、グローバル化やIT化の波に乗り遅れているのだ。

 九八年に発足したシュレーダー政権は、社会保障や失業保険の改革に乗り出し、大胆な減税にまで踏み切ったものの、〇五年の選挙で敗退した。豊かで安定した生活に慣れきった国民は、なお社会福祉国家の夢を捨てきれない。ここに「ドイツ病」の根源がある、と著者は見る。
 日本もまた人口減少、少子・高齢化、労働コストの上昇で国際競争力が低下し、年金や財政の破綻が迫っている。経済はやや回復してきたが、明確な将来像はまだ描けていない。

 そこで、著者は三十年以上前から人口の自然減少を続けているドイツを見習い、@労働力不足には、女性の就業率を高め、優秀な外国人を受け入れよ、Aドイツをはるかに上回る公的債務を早急に解消する諸改革を急げ、B欧米よりかなり低いホワイトカラーの生産性をドイツなみに向上させよ、C高付加価値型の産業構造を築くため、高等教育制度の改革を急げ、などと提案する。

 日独両国の病状は人口、経済構造とも、かつてのイギリス病やスウェーデン病と同様、先進成熟国ゆえの宿命だ。とすれば、人口減少・成熟経済に対応する社会モデルの構築が、両国の責務になる。そのことに気づかせてくれる、貴重な一冊だ。

(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


パラサイト・ミドルの衝撃-サラリーマン45歳の憂鬱』三神万里子著、NTT出版

 両親に寄生する若者「パラサイト・シングル」に対し、若者に寄生する中年は「パラサイト・ミドル」だ、と著者はいう。正確には、一九九五年から二〇〇五年の間に四五歳を迎えた世代のうち、一定規模以上の企業に所属し続け、あるべき機能を果たしていないため℃瘤閧フ稼ぎや社会に寄生している人たちだ。

 彼らが出現したのは、九〇年代半ばから進んだ、大規模な雇用削減、外資系に勤める同世代の活躍、若年起業家の増加などで過去の成功体験が否定されたうえ、上層部の居座りで管理職ポストに就ける年齢もますます上昇しているためだ。こうした理由が重なって、彼らは勤労意欲を失い、軽易な仕事で給料を得たいと思うようになったのだ、と説明する。

 ところが今、日本の社会は、一つの国内で特定の権威が明確な方向づけをする「ピラミッド」型から、国境を超えたスケールで全員が知を駆使して柔軟にバランスを実現する「蜘蛛の巣」型へ移行しつつある。パラサイト・ミドルから上の世代は前者の仕事観をなお引きずっているのに、それ以下の世代はすでに後者の価値観へ変わり始めている。

 それゆえ、パラサイト・ミドルに求められているのは、IT能力やコミュニケーション能力を磨いて、このギャップを乗り超えることだ。企業内に留まるなら、親会社が資金を提供して有望事業を切り離す「カーブアウト」に賭ける。スピンアウトするなら、NPO、NGO、LLP(有限責任事業組合)などで、新たな仕事を見つける。さらには、社会の情報ニーズを的確にとらえて、個人で仕事を作り出す「独立業務請負人」をめざすべきだ、という。

 多様なデータを駆使して、精緻に導き出された提案は極めて適切で、該当世代には必読の一冊だろう。ただ世代論としては、団塊と団塊ジュニアの谷間にある彼らの特性分析がもっと欲しいし、著者の属する世代も明記すべきだろう。それ自体が著者のいう「情報信頼性」なのだから。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


『ついていく父親・胎動する新しい家族』芹沢俊介著、春秋社

 奇妙な書名は、変わり行く家族の姿とそれに対応する、新しい父親像を提案したものだ。

 著者によると、戦後の家族形態は、祖父母・父母・子どもが同居する「多世代同居」型から始まり、夫婦中心の「単世代同居」型、夫婦の仕事や生き方が独立した「個別―同居」型、別個に働く夫婦が積極的に別居する「個別―別居」型へと移行してきた。

 現在は四形態が混在しているが、そのことが世代、夫婦、親子間の家族観や生き方の差異を生み出し、家庭内暴力、家族虐待、登校拒否、引きこもりなど、さまざまな家庭的、社会的問題を引き起こしている。

だが、家族そのものはすでに「消滅点」の手前にあり、新たな家族形態はすでに、離婚後になお同居を続けるパートナー家族や、単身者が共同で生活するグループホームなど、血縁や婚姻形式を超えた「透明な容器」へと動き出している。

 以上の変化に最も対応できていないのが父親だ。企業社会の中で生きている彼らは、自らの家族をその社会に適した「教育家族」に仕立て上げ、その中で社会からの孤立を一番恐れる「社会的自己」を自分の役割としている。このため、登校拒否や引きこもりといった問題すら、〈母―子〉体制の内側の話だと見なして、家族の変化に取り残されている。今、父親に一番必要なことは、この誤解を自覚し、すでに変わり始めている母親を踏襲して、自らの内側にある「教導する父」像を解体することだ。これが、著者の提案する、妻や子に「ついていく」父親像である。

 さまざまな実例で詳細に論証された、家族の軌跡と将来像は、著者が自負するとおり、最先端の考察だ。だけど、単純に「ついていけ」といわれても、世の父親族はいささかとまどうのではないか。公共性と個人性の相克や調整、あるいは世間と自我の葛藤や調和こそは、父親のみならず人間にとって、永遠の課題であるからだ。こうした議論の喚起こそ本書の意図するところだろう。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


『経済が社会を破壊する』正村公宏著、NTT出版

 日本は今、危機にある。「経済だけでなく、日本の社会も危機の様相を強めている」と、日本経済を永年ウオッチングしてきた著者はいう。
 最大の根拠は、人間の再生産に失敗していることだ。量的には急速な少子化で「単純再生産」に失敗し、質的には異常犯罪の増加が示すように、日本人の劣化が社会の持続可能性を破壊しつつある。

 こうなったのは、過剰な産業主義と商業主義が私たちの生活を支配したからだ、と著者は書く。日本人の大多数が二つの主義に突き動かされて、相応の豊かさと便利さを手に入れた時、多くの子どもが社会生活を営むための、必要最低限の規律さえ身につけられなくなり、自らの子どももまともに育てられなくなった。

 この危機から脱出する方策はあるのか。著者はまず社会目標の重点を環境、教育、福祉に移し、マクロな経済政策と社会政策を改善せよ、と提言する。続いてイデオロギー型と利害型の日本型政治を克服し、西・北欧型社会民主主義のプログラム型政治を育てる。そのうえで、地球や人類の未来のために、人間と自然の関係、人間と人間の関係、個人と家族の関係を再構築せよ、と力説する。

 専門の経済・社会政策はもとより、国際関係や地球環境まで見据えた、まことに見事なグランド・デザインだ。だが、評者のような人口生態学の立場から見ると、著者の人間観はあまりにもナイーブだ。

 「子どもを生んで育てたい」と考えるのは、「生物学的存在としての人間」にとって「自然」だというが、未開国であれ先進国であれ、人口容量が飽和した社会では、堕胎、間引き、非婚、禁欲などで出産を抑制する文化℃沫痰ヘ限りがない。産業・商業主義のせいだけでは決してない。「そうした文化的抑制は適応力のある社会にのみ存在する」(R・ウイルキソン)という意見さえある。

 著者が今後、再構築をめざすという、新しい経済学には、より広い人間観を期待したい。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


うつと自殺』筒井末春著、集英社新書

  不況の中で自殺、とりわけ中高年男性の自殺が増えている。直接の原因は経済問題や健康問題、人間関係や仕事上のトラブルなどだが、この本の著者によると、その中にはうつ病の患者が数多くいるという。

  うつ病とは、仕事、家庭不和、病気、薬物などで、ストレスに晒され続けた結果、脳の神経伝達システムに異常が生じ、生きる意欲を失ってしまう病気だ。だが、早期に発見して、薬の服用と十分な休養をとれば治癒は可能だし、悲劇的な自殺も防止できる。

  それにはまず、うつ病の病理を正しく知ることだ。健常者の場合、脳の神経細胞から放出された「元気物質」は、次の細胞で受け止められて一定の情報を伝達し、使命を終えると元の細胞に回収される。このしくみが一時的に破綻するのがうつ病だが、なぜ破綻するのか、詳細はまだ突き止められていない。

  しかし、最新の治療では、放出量の減った元気物質が回収されるのを、薬の力で阻止して細胞間に蓄積させ、情報伝達機能を維持できるようになった。もっとも、薬だけで元気物質を増やしたり、機能を高めるのは不可能だから、しくみを回復させるためには、やはり十分な休養が必要だという。

  一読して感じるのは、うつ病とは、過剰な意志力で環境へ対応しようとする人間の横暴さに、生体が発する、いわば“正常な”反応ではないか、ということ。慢性疲労という軽症段階から自殺に至る重症段階まで、いずれの病状も過酷な環境や無理な生き方に対する、生身からの警告を示している。著者のいうように、現代社会の「誰がかかってもおかしくない、人間的な病気」なのだ。

  とすれば、医療においても、薬品の改良や休養の勧めだけでなく、社会環境や過酷な運命にもっと“柔軟に”つきあう“生き方”を、適切に助言する手法が必要になろう。いろいろと医療の未来を考えさせてくれる上で、この書の示唆は貴重である。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


『太りゆく人類』E・R・シェル、栗木さつき訳、早川書房

 繁華街には痩身美容サロンが乱立し、女性誌にはダイエット食品の広告が溢れている。女性たちは痩せるために必死に努力し、男性たちも肥満防止を自己管理の目標にしている。

 だが、肥満は意志が弱いからではない、と本書の著者はいう。「太りやすい」人と「太りにくい」人が分かれるのは、各人の「遺伝子」と成育「環境」で決まる。胎児期から思春期までは、太りやすい体質をある程度変えられるが、その後は次第に変えにくくなる。

 サイエンスライターである著者は、こうした科学的事実を、多彩なルポと柔軟な文体で克明に描きだす。取材の対象は「肥満遺伝子」や「肥満メカニズム」を研究する科学者たちの奮闘や競争、それを応用した「ゲノム創薬」をめぐる製薬企業の暗躍、究極の痩身術としての「胃バイパス手術」の実態から、南太平洋諸島にまで広がった肥満現象、過食を促進する食品産業や飲食産業のマーケティング戦略にまで過不足なく伸びている。

 その結果、浮かび上がるのは、“肥満”とは個人レベルの問題ではなく、現代文明社会、とりわけ英米型市場社会の当然の帰結、という実態だ。大局的にみれば、肥満とは過食と運動不足の差が蓄積していくことだが、市場社会は一方では外食産業から加工食品まで高カロリー食品を溢れさせ、他方では自動車、テレビ、ITなどでカロリー消費を減少させている。さらには肥満者対策として、医療、薬品、食品、美容、広告などで、一兆ドル規模の“痩身産業”さえ生み出している。

  それゆえ、私たちは「社会の圧力」としての肥満の蔓延に強く抵抗すべきだ、と著者はいう。だが、こうした社会が、鳥の羽根でのどを刺激し、多様な吐瀉剤を用いて、数度の美食を楽しんだ帝政ローマ末期に酷似している以上、覆すのは並大抵ではない。その意味で、本書は現代社会の宿命を的確にあぶりだしている。

と同時に、ダイエットや痩身医術を始めようとする人には必読の一冊だろう。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


『マクドナルドはグローバルか』J・ワトソン編・前川啓治他訳,新曜社

 マクドナルドは米国の文化帝国主義だ、という批判がある。同国の社会学者G・リッツァも『マクドナルド化する社会』や『マクドナルド化の世界』の中で、その本質は効率化が社会全体へ浸透することだとし、規格化・画一化による非人格的な風潮を警告している。

 にもかかわらず、マクドナルドは世界中に浸透し始めている。とりわけ、日本、香港、台湾、韓国、中国など東アジアの諸国には、一九七〇年代以降次々と進出し、すでに違和感のない食べ物として定着している。

 その理由は何か。本書は経営学や社会学ではなく、文化人類学の立場から、米国、中国、香港、韓国、日本出身の六人の研究者が、各国の人々に聞き取り調査を行って、食文化の変容プロセスを描きだしたものだ。

 マクドナルドを食べることは、単なる食べ物を超えて、利便性、安全性、味や品質の均一性、行列やセルフサービス、面白さや親しみやすさ、学校や家庭からの避難所、トイレやキッチンの清潔さ、立ち食いや食べ歩き、そして米国という新世界への憧れといった、さまざまな“経験”を味わうことだ。そうした特性ゆえに、経済成長と歩調を合わせて、東アジアの国々にほぼ同様の形で受容された。だが、韓国や台湾では政治的な意味合いが強く、また中国では異国趣味が強いなど、受け入れ方にはかなりの差があった。

 著者らは、この差異をグローバル化とローカル化(現地化)という“相互作用”の結果として受け止める。言葉や習慣は固有の“文化”だが、そこから生まれる生活様式も規格化し形式化した時には、電気製品や自動車と同様、一つの“文明”として世界中に普及していく。マクドナルドというアメリカ式生活様式も文明の一つになった以上、さまざまな変容をとげながらも、各国の生活文化の中に浸透していく、ということだろう。

調査研究の報告書だが、翻訳はほどよくこなれており、専門外の読者にもおすすめできる。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


大国日本の幻』塩田潮著、講談社

  バブル崩壊後十余年を経て、『バブルと金融政策』、『平成バブルの研究』など、八〇年代の日本を振り返る本が相次いで出版されている。本書もその一つだが、専門書ではなく、ジャーナリストが書いた、生々しいノンフィクションだ。

  八〇年代半ばに始まったバブルは、九〇年代初頭に破裂し、以後は長期の「平成不況」に陥った。この間にプラザ合意、中曾根民活、財テクブーム、バブル潰し政策、金融危機、大蔵省解体と政治・経済は大きく揺れたが、本書はそれらに関わった政治家、官僚、財界人、銀行経営者などの姿を詳細に描き出す。リーダー層に加えて、浪花の女相場師・尾上縫、大昭和製紙の斉藤了英、桃源社の佐々木吉之助、末野興産の末野謙一、東京協和信用組合の高橋治則といった、バブルスターたちの動静も活写されている。

  結局、バブルとは、プラザ合意後の円高不況克服とブラックマンデー後の世界通貨不安解消のため、強引に実施された市場介入政策で「過剰流動性」が発生し、それが不動産投資や株式投資に回ったことが「元凶」だった、と著者は整理する。

  同時に、多くの国民が株価・地価上昇神話、銀行不倒神話など「神話信仰」という思考停止に陥り、代わりに経済大国、金融大国、黒字大国、技術大国という「大国」幻想にとらわれた。だが、バブルが崩壊して、「大国日本」が幻であったことが明らかになった、と結論づける。

  この結論はそれなりに正しい。だが、最大の原因は、リーダーから国民までが、日本が今どこにいてどこに向かっているか、という大局観に欠けていたことだろう。それは、バブルの先例を維新以降の現代史にのみ探索する著者にも共通している。

  著者は、新しい財務省にポスト成長型社会の青写真を描き得る構想力を期待する。それには、新しい国家モデルを人口減少や需給縮小でも成熟化した、十三世紀の英国、十四世紀の南宋、江戸中期の日本などに求める、文明史的な視点が必要だろう。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


囲い込み症候群』太田肇著、ちくま新書

  深刻な不況にもかかわらず、会社員の間では丸抱えの「日本的経営」を嫌って、企業離れや組合離れが進んでいる。自治会、PTA、子供会などでも、「地域に帰れ」というかけ声とは裏腹に参加意欲が低下している。

  私たちが企業、労働組合、地域、学校などの組織に所属するのは「個人ではできないことを実現するため」だ。だが、その多くは本来の目的から外れ、「具体的な必要性が乏しいにもかかわらず、包括的な網」でメンバーを縛る「囲い込み」症候群に陥り、個人的には「不自由」、社会的には「不平等」、組織的には「不適応」を生んでいる。なぜそうなったのか。著者はさまざまな調査から歴史的、社会的に分析し、最大の理由は「個人尊重」の精神が欠けていることだという。

 しかし、最近の企業内には、社内よりも市場の評価を重視する出世観の拡大、IT化によるワークスタイルの変化などで、仕事以外の私生活も重視する「自律型個人主義」者が増えている。地域でも女性の職場進出に伴う参加活動の低下、生活圏の広がりによる地元観の希薄化、生活パターンの多様化などで同じ主義が広がっている。こうした個人主義は「マイペースな生き方にこだわり、組織を超えた広い社会に活動の場を求め」、その場で「尊敬、自我、自律といった欲求を満たそう」とするから、「囲い込み体質はむしろ個人の自由を束縛するものとして忌避」される。

 どうすればいいのか。著者は解決策として「インフラ型組織」、つまり「メンバーを囲い込まず、支援することに重点を置いた組織」を提案する。「主役はあくまで個人であり、組織は個人が活動を行うための場」という、新しい組織の方向だ。

 企業も地域も社会変化に対応した組織形態へ変わるべきだ、という指摘はまことに正しい。だが、問題は組織の側だけではない。自我肥大を自己実現と誤解する個人が、組織とどう向き合うかも改めて問わねばならない。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


医者井戸を掘る──アフガン旱魃との闘い』中村哲著、石風社

    同時多発テロでアフガニスタンへの関心が高まっている折、本書の著者にはマスコミの注目が集っている。非政府組織(NGO)を率いて、パキスタンとアフガニスタンで一つの病院と十の診療所を運営する、現地事情に最も精通した医師であるからだ。

  だが、本書は報復問題を扱ったものではない。昨夏、アフガニスタンを襲った大旱魃に際し、手弁当で多数の井戸を掘った著者たちの、苦渋に満ちた奮闘記なのである。タリバン政権と反タリバン勢力間の内戦、近代的な掘削機をよせつけぬ巨礫層、地元井戸堀り業者の妨害など、多発する難問に果敢に挑戦する姿には強烈な使命感が溢れている。

  その一方で、膨大な難民の発生に手をこまねく国連の無力さやその関連機関の横柄な官僚主義、あるいは欧米NPOの功名争いや縄張りといった、従来の美名を覆す実態も紹介される。このためか、著者のアフガニスタン観はこれまでの定説をはるかに超える。

 人権侵害の権化とされるタリバン政権についても「保守的なイスラム慣習法を全土に徹底し、それまでの無政府状態を忽ち収拾、社会不安を一掃した」と、一定の評価を与える。バーミヤン石仏の破壊でさえ、日本に非難する資格はない、と断言する。

大旱魃の原因は先進国の生み出した地球温暖化であり、打つ続く内乱も大国の思惑によるものだ。タリバンに国連制裁を加えた国際秩序でさえ、「貴族国家のきらびやかな生活を守る秩序」にすぎない。結局、先進諸国の富と武器への信仰こそが「偶像崇拝」であり、仏像以前に「世界を破壊」している、と逆に批判する。

 欧米発の情報に偏りがちな昨今、筆者の指摘はまことに尊い。今後、著者らの活動を活かしていくには、日本が先頭に立って、欧米主導の一元的な援助・開発に代わる、より多元的な支援方式を構築することが必要だろう。

近代的な掘削機械よりハンドメードの井戸堀り技術の方が、ずっと役立ったように。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


ルガノ秘密報告 グロ ーバル市場経済生き残り戦略』S・ジョージ著、朝日新聞社

 某国際組織が欧米の専門家集団に委託研究 した秘密報告書の全文である。目的は、グロ ーバル市場経済システムの維持・発展のため に何をなすべきか、を探し出すこと。

 これに応えて、秘密報告書は、同システム が二一世紀に直面する問題として、南北格差 の拡大、金融のメルトダウン、生態系破壊の 脅威などをあげる。だが、最大の問題は六〇 億を超えていく人口の爆発。これを野放しに しては、どんな対策を打っても、グローバル 市場経済は存続できない。

 そこで、「最大多数の幸福と福祉を保障す るため」に、世界人口を大幅に減らすことを 提案する。が、その実施には、さまざまな抵 抗が予想されるから、人権万能主義を超越し、 政治・経済の新世界秩序の形成をめざして、 最先端の心理学的手法を応用する。

 具体的には、死亡率を上げるため、黙示録 の四騎士に習って、征服(長寿より短命を追 求)、戦争(局地的戦争)、飢饉(人道的援 助の廃止など)、疫病(公共サービスの削減 など)の四つを行う。また出生率を下げるため、医学的、社会科学的な研究を促進し、 「アメとムチ」の両面から生殖を抑制する。

 死亡率と出生率に介入できれば、世界人口は 現在の六〇億人から、二〇二〇年には四〇億 人まで落とすことが可能になる、という。

 一見、ナチスのジェノサイド(集団殺戮) を思わせる、戦慄すべき内容だが、実は全て 著者の創作である。

 但し、単なるSFではな い。著者が自負しているように、豊富なデー タに裏付けられた、まことに見事なシミュレ ーションである。この報告書はグローバル市 場経済だけでなく、人類全体に対して、破局 の危機を逆説的に警告しているのだ。

 もっとも、著者は「解題」で、この報告の 結論に反論し、横暴な「グローバル市場経 済」に対抗していくためには、NPOや地域 通貨などの市民運動家をインターネットで結 び付けた「グローバル民主主義」の形成が必 要だ、と主張する。

 この提案は基本的に正し い。だが、秘密報告書の描く、大規模な破局 に対し、果して間に合うのだろうか。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)

『偉大なる衰退』高橋英之著、三五館

  間近に迫った人口減少を異常な事態とみなして、あれこれと嘆く声が多い中で、日本の少子化は、来世紀の過剰人口世界に向けて、極めて「正しく対応している」現象だ、と本書は主張する。

  振り返ってみると、二十世紀の日本には三つの大きな選択があった。一つめが明治以降の人口増大による戦前の対外膨張、二つめが戦後のアメリカ志向、三つめが現在の少子化、つまり小人口志向。この三つはいずれも、国民の意識的あるいは無意識的な選択の結果として、一種の「合理的選択」であった。

  本書はこの視点を押し進め、今後われわれがめざすべきは、「小人口化」を経た後の「恒産社会」だ、と大胆に提案する。恒産社会とは、各家族が「意志さえあればそこで自分で作物をつくり、その作物の一部を売ることによって、家族が衣食住をなんとかまかなえるほどの土地」を所有している社会だ。そうした社会に到達できるのは、ざっと百年後、人口が現在の八分の一、約千五百万人になった時だ、という。

  恒産とは、孟子の「恒産無ければ、恒心無し」に基づく言葉だが、現在の日本にはそれがないため、国家的には食糧を支配するアメリカに従属せざるをえないし、個人的には帰る田園もなくサラリーマン生活を拒否できない。それゆえ、人口減少による資産の拡大で恒産を確保し、神儒仏など宗教の復権や家族の回復を実現して、「よく生きられる文明」を創りだすべきだ、と説く。

 最先端技術を駆使しつつ、伝統的精神を再構築して、二十一世紀末に約千五百万人の自給自足的な国家を創れ、という主張は、いささか過激すぎて、現実性に欠けるうらみがある。しかし、本書に流れる思想は、明治期の『米欧回覧実記』に見る欧州の小国評価に始まり、大正デモクラシー期の三浦銕太郎や石橋湛山の「小日本主義」に至る、もう一つの国家目標を正しく継承しているものだ。

  人口減少が現実になった今こそ、小国・凝縮志向という国家目標を、改めて評価すべき時なのである。
(現代社会研究所所長・古田隆彦・書評)


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