地域政策研究室
TOP INDEX
現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY  
この研究室では、地域振興や地域産業開発などを研究しています。
その成果として、地域政策関連雑誌などへ寄稿した論文を再掲します。


人口減少地域のマーケティング──企業と金融の経営戦略が変わる(「地銀協月報」(2004年10月号)          
     現代社会研究所所長・青森大学社会学部教授・古田隆彦

経済の“常識”が一変する
  日本の人口は2005年前後から確実に減少する。18世紀前半(天保時代)から続いてきた人口増加社会が終わり、ほぼ200年ぶりに減少社会が始まる。

  人口の減少で日本の社会は大きく変わる。一言でいえば、人口増加を前提にした成長・拡大社会から、人口減少を基盤とした飽和・濃縮社会に移行するが、これに伴って、従来の経済的な常識もまた一変する。

  第一に、ゼロ成長であっても個人生活は豊かになる。人口減少時代になると、多くの経済学者が指摘するように、内需の縮小と労働力の減少で、需給両面から日本経済は縮小する。あるいは一部の社会学者が主張するように、人口減少に比例してGDP(国内総生産)が低下してもかまわない。

 だが、もしゼロ成長が維持できれば、国民1人当たり所得は増える。人口が増加している時、国民に豊かな生活を保証するには、GDPを増やすことが絶対条件だった。人口が増える以上、それだけ多く稼がなければ、国民は豊かになれなかったからだ。しかし、人口減少時代になると、GDPが減らなければ、国民1人ひとりは豊かになる。GDPという分母が一定で、国民という分子が減っていくから、当然1人当たりGDPは増える。

  嘘のような話だが、歴史的にみれば先例がある。14世紀中期〜15世紀中期のイギリスでは、ペストの影響で人口が約4割も減少したが、雇用労働の賃金が高騰し、実質賃金は約2倍に上昇した。高騰を抑制しようと、当時の政府は雇用労働者規制法を制定したがほとんど効果がなく、15世紀は「農業労働者の黄金時代」となった1)。江戸中期の日本でも、1730年以降、農業生産の停滞で人口が減少したが、逆に農民1人当たりの実収入は上昇した。1人当たり耕地面積の拡大に加えて、田畑輪作や二毛作の開始など、新しい農業技術の導入で生産性が向上したからだ2)。

  以上の先例を参考にすると、今後の日本経済は大きく様変わりする。実際、2005年前後から人口が減りはじめると、1億2,700万人で分け合っていたパイは、2020年頃に1億2,000万人、2030年頃に1億1,000万人と、頭数が減るにつれ分け前が増えていく。もし現在のGDP約500兆円が維持できれば、1人当たりGDPは現在の393万円から、2020年には実質411万円(1.04倍)、2050年には同543万円(1.38倍)に増える。

  経済構造がここまで変わる以上、「ゼロ成長では困る」という発想はもはや過去のものだ。「収益が伸びないから、サラリーはあげない」という経営者の弁解も、もはや通用しなくなる。今後はゼロ成長を大前提にして、経済や経営を考えていかねばならない。

必需財は安くなり、選択財は高くなる
  第二に供給過剰が現在以上に進行する。いうまでもなく人口が減れば、衣食住のほとんどの分野で需要も減る。しかし、労働力が減りはじめても、生産規模の低下は緩やかだから、供給力はなお維持される。14〜15世紀のヨーロッパでも、人口の激減にもかかわらず、土地や生産用具はそのまま残ったから、生産規模は低下せず、穀物の供給過剰が進んだ3)。まして現代日本では、高度に機械化された工業や生産性の高さが当然、労働力の減少を補うから、生産規模は維持される。そのうえ昨今の国際環境では、アジア、東欧、南米など発展途上国からの輸入も増加するから、供給力は衰えない。結局、総需要の減少に対して供給量は維持され、全体として供給過剰が強まっていく。

  その結果、第三に必需財は安くなり、選択財は高くなる。供給過剰の影響が一番現れるのは、衣食住などの生活必需品、とりわけ工業製品の価格低下だ。逆に選択品の価格は高騰する。所得が上昇し、生活必需品が安くなる以上、国民の消費性向は必然的に選択品に向かっていくからだ。さらに企業側でも売り上げ減少をカバーするため、商品やサービスの単価や回数を上げていく戦略を迫られる。それには必需品より選択品の方が適しているから、需給両面から選択品の価格が上がっていく。

  14〜15世紀のヨーロッパでも、先に述べたように、所得の上昇と穀物価格の低下で可処分所得を増やした農民たちが、新たな衣料として羊毛を求めはじめている。江戸中期の日本でも、豊かになった農民や町人が櫛、かんざし、絹もの、印籠などの選択品を求め、「米価安の諸色高」という現象を進めた。今後の日本に当てはめれば、「必需品安の選択品高」ということだろう。

21世紀の先進国とは
  では、新たな選択品とはどんなものなのか。消費市場全体の方向から考えると、すでに人口停滞社会に移行しているヨーロッパ諸国のライフスタイルが参考になる。

  周知のとうり、人口減少は先進国に共通する現象だが、この視点から20世紀後半(1950〜2000年)と21世紀前半(2000〜2050年)の、各国の人口増加率をパターン化し、人口動向と社会進化の関係を整理してみると図1になる4)。

  この図でIからVIまでのグループは、各国の社会発展の進度を示している。最も社会が進んでるのはスウェーデン、ノルウェー、フィンランドなどの北欧諸国とイギリス、フランス、2番目がドイツ、ベルギー、オランダ、デンマーク、オーストリア、スイスなどの中欧諸国、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシアなどの南欧諸国、ルーマニア、ブルガリアなど東欧諸国と日本、3番目がアメリカやカナダの北米諸国、中国や韓国などの東アジア諸国にアルゼンチン、オーストラリアなど、4番目がインド、タイ、フィリピンなどの南アジア諸国、メキシコ、ブラジル、ペルーなどの中南米諸国、5番目が中近東や西アジア諸国、6番目がアフリカの諸国という順序だ。

  一見してわかるように、これら6つのグループは、近代工業文明の導入で各国の国土条件がどこまで活用され、どこまで「人口容量」が増えてゆくか、を示している。狭い国土であれば、いくら努力しても人口容量はすぐに一杯になり、人口もやがて停滞・減少する。逆に広い国土であれば、なかなか使いきれないから、人口容量はなおも拡大し、したがって人口も急増する。だが、国土がいかに広くても、寒冷地や高地、あるいは農業不適地や資源の出ない土地が多ければ、それだけ早く人口容量の限界が来る。結局、この図が示しているのは、各国の自然環境と近代工業文明が作り出す人口容量の推移なのである。

  さらに人口容量の推移は、それぞれの社会の進化の程度を示す。人口容量に余裕があり人口が急増している社会は若々しいものの、荒々しい。逆に人口容量が飽和化し人口が停滞している社会は、一見停滞しているように見えるが、実は成熟した社会だ。

  こうした視点に加えて、21世紀の国際環境を考えると、早ければ2030年代に人口爆発で資源・食糧不足と環境破壊が予想される。そうなると、人口を減らし、消費を抑制し、環境汚染を減少していく国家こそ、新たな先進国ということになる。20世紀の先進国が、アメリカに代表される、人口増加・大量消費・大量廃棄の成長・拡大国家であったとすれば、21世紀型の先進国は、人口減少、少量消費、少量廃棄に裏づけられた飽和・濃縮国家なのである。

  とすれば、今後、日本のモデルとなるのは、もはやアメリカではなく、北欧や西欧諸国だろう。現にILO(国際労働機関)が発表した「労働者の経済安全性ランキング」(2004年9月)でも、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーのベスト3に続き、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランス、ルクセンブルク、ドイツと、上位には北欧・中欧諸国がランクされ、日本は18位、アメリカは25位だった。日本の目標は今や変わりつつあるのだ。

シンプルライフ・スローライフへ向かって
  北欧・西欧諸国の社会構造やライフスタイルを参考にすると、日本の方向が見えてくる。例えばスウェーデン、ドイツ、イギリスなどでは、できるだけモノを持たないで、生活を充実させる「シンプルライフ」が始まっている。可能な限りモノを買わないで、持ち物を必要最低限に抑える。最低限のモノを工夫して、さまざまな用途を作る。買ったモノはできるだけ長く大切に使う、といったスタイルだ。この傾向が広がると、「モノを持つことが豊かだ」という、これまでの価値観が大幅に見直され、「モノとの深い関わりの中に満足感を見いだす」という、新たな価値観が強まる。そこで、消費者の中にも「モノの所有よりもモノとの関わりを重視する」という人たちが増えてくる。

  またイタリアでは「スローライフ」運動が広がっている。1986年、北イタリアのブラという片田舎でNPO(非営利組織)としてスタートした「スローフード運動」は、現在では世界中に広まった。いうまでもなくこの言葉はファーストフードの反語で、「マクドナルド」に代表される、世界的規模での食の画一化や加工化に抵抗して、地域独自の伝統的な食材を見直し、ゆっくりと味わおうというものだ。しかし、この運動が世界に広がるにつれ、単なるスローフードを超え、いわゆる「スローライフ運動」に発展した。さらには食糧・資源・環境問題が拡大する21世紀に向けて、新しい社会・経済・生活構造を示す、適切な目標に格上げされつつある。

 ライフスタイルの変化に対応して、ヨーロッパでは新たな商品作りが始まっている。什器や家具では、1960年代の発売以降一度もデザインを変えないカップセット(フィンランド、アラビア社製)や、白木の素材を活かし、使えば使うほど色艶の出てくる家具類(スウェーデン、ノヴァ社製)など、10〜20年後でも決して飽きのこない製品が増えている。家電でも長年変わらぬ機能性を重視した箱型のシンプルなドラム型洗濯乾燥機(スウェーデン、エレトクロラックス社製)をはじめ、40年代からまったくデザインを変えないクラシックトースター(イギリス、デュアリット社製)、発売時のままの丸みを帯びたコードレス湯沸器(同、ラッセルホブス社製)などでは、機能性を絞り込み、操作を単純にし、モデルチェンジをしないかわりに、保守・点検サービスが行き届いている。

  こうした新しい傾向は、すでに日本でも広がりはじめており、やがて21世紀型先進国の消費動向として定着していく。が、それは決して消費の縮小を意味するのではない。むしろ消費者と深い「関わり」を持つようなモノの拡大を意味している。例えば、いつまでも大切に使うために、多少高価であっても、できるだけ品質やデザインのよいモノを選ぶ。できるだけ長く使えるように、メンテナンス・サービスが充実している会社を選ぶ、といった消費行動を拡大させるのだ。

 とすれば、21世紀の選択品とは、単なる「必需品」や「選択品」という区分を超えて、消費者の“心”を深く、長く引きつける「必需“心”」ともいうべきものに変わっていく。

必需“心”をつかむマーケティング
 新たなライフスタイルが広がると、人口減少社会の消費市場では主導産業やマーケティング戦略の方向が変わる。

 人口減少時代の産業開発といえば、多くの経済学者が指摘するように、減っていく子どもに対する少産化対応産業、増えていく長寿者に対する長寿対応産業、規模の縮小していく家族に対する新家族対応産業、都心集中と郊外過疎の進行に対する新居住地対応産業、長期的な資源や食糧の不足に対する制約対応産業、そして工業廃棄物や生活廃棄物の増加に対する環境対応産業など、まずは人口減少に伴う諸ニーズに向けての新産業が有力である。あるいは、技術評論家や経営者が主張するように、電子、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、新素材、自然系エネルギーなど、いわゆるハイテクをシーズとして新商品を創造していく分野も有望である。

 この二つは人口減少市場の行方にとって、最も常識的な方向である。だが、それだけではない。もう一つ、大きく伸びてくるのは、以上に述べたような必需“心”分野である。今後の飽和・濃縮社会では、従来の成長・拡大社会とは比較にもならないほど、心理的、精神的な願望が求められるようになる。それゆえ、あらゆる産業は従来のシーズ、ニーズの枠を超えて、こうした需要に対応することが求められる。言い換えれば、人口減少対応産業もハイテク応用産業も、ともに従来型の需要対応だけでなく、必需“心”産業としての対応を急ぐことが必要になる。

 では、必需“心”分野とはどんなものなのか。代表的なものは濃縮消費、自分消費、欲動消費の3つだ。濃縮消費とは、大きなものよりも小さなものの中に、消費者がアイデンティティーを見つけ出すもので、携帯電話がその典型だ。携帯電話は先端技術を駆使して限りなく小さな道具に変わりつつあるが、その機能もまた単なるコミュニケーションツールを超えて、メモ、写真集、大切なメールの保管庫など、消費者の分身になりはじめている。今後は、時計、カメラ、パソコンなど高機能を追求する商品のほとんどが、こうした方向へ向かうことになろう。

 続く自分消費とは、自分だけのモノやサービスを求める消費行動であり、他人とは一味違うモノを求める点で、モノそのものを消費するというより、モノに反映した自分自身を消費するものだ。こうした需要に対応する商品開発やマーケティング戦略としては、私仕様、参加、手作り、編集、変換、愛着などの対応策がある。

  「私仕様」とは1人のユーザーだけの特注を作りだすもので、その代表はイッセイミヤケの「A・POC」ブランドだ。店頭に並んだ反物のような布地から、ユーザーの言うままにパーツを切り出し、世界に一つしかないファッションを1時間ほどで作ってしまう。また「参加」とは商品製造にユーザーが自ら参加するもので、インターネット上の「空想生活」では、消費者が自分で考えだした商品アイデアをサイト上に載せて購買参加者を募り、一定の数が集まると、メーカーへ依頼して実際に製造している。

 参加がさらに進むと、ユーザーが自分の手で商品も作りだす「手作り」になる。最近流行の「カスピ海ヨーグルト」から「手作り味噌」や「ログハウス」などがその例だ。手作りが面倒だというユーザーには、既成の商品を自由に組み合わせて自分だけの商品を作りだす「編集」がある。さまざまなウィスキー原酒をブレンドして作る「マイブランドウィスキー」や、50種類以上のお惣菜を自由に組み合わせて自分だけの弁当を作る「惣菜バイキング」がその例だ。編集の延長線上には、ユーザー自身に既製品の用途を変えさせる「変換」もある。ここではテーブルクロスやネッカチーフに変えられる風呂敷、食器棚や整理棚に変えられる医療用カルテ棚などがすでにヒットしている。

 さらに商品作りに自ら関わると、「愛着」が増していく。この愛着を最大限に活かせるようにリペア・リフォーム体制を完璧にして、生涯顧客や娘・孫までの三代顧客を作りだす「一生保証ハンドバッグ」や「一生もの腕時計」などもすでに先行している。

 そして欲動消費とは、欲求や欲望といった意識的な願望の下に潜む、無意識の願望に積極的に対応するもので、意識や言葉になる前の「体感」消費、夢や神話などの「元型」消費がその先例だ。この分野の先例としては、ペット、温泉、エステティークなどの新産業や、コミック、アニメ、ゲーム分野での「元型」型キャラクターがあげられる。元型とは分析心理学者C.G.ユングの用語で、私たち人間が周りの環境世界を言葉になる以前につかむイメージ、つまり地母神、童子、道化などのキャラクターのことだ。これらを巧みに使いこなして世界的にヒットさせたのが、アニメ映画「千と千尋の神隠し」である。

地域づくりの方向が変わる
 これまで述べてきた変化は、地方経済にもすでに波及しはじめている。図2は都道府県別人口を展望したものだが、これを見ると、すでに8割が全国に先駆けて人口減少に転じており、残りの2割もまもなく減少に転じる。とすれば、ほとんどの地域社会は、すでに人口減少社会に突入しているのだ。

 そうなると、まず第一に見直すべきは「地域づくりの目標」だろう。従来の成長・拡大社会がすでに過ぎ去ってしまった以上、いつまでも過去にこだわらず、地域の目標もまた飽和・濃縮社会に見合ったものに変えていかねばならない。具体的にいえば「成長より成熟を・拡大より濃縮を・活力より余裕を」なのである。

 第二に産業育成の方向も、従来の公共投資主導型はもとより工場誘致型や観光開発型をも超えて、飽和・濃縮していく地域社会の需要へ真先に対応する産業へ重点を移していかねばならない。例えば、少産・長寿化、新しい家族形態、居住地の変化といった、新たなコミュニティーニーズに対して、地域に根ざした、きめ細かな対応をする地域企業や、高齢者や専業主婦層を積極的に活用する組織(例、徳島県上勝町のツマ農業、愛知県足助町のシニア活用)の育成が急務となる。

 あるいは安心度の高い食材、自然の恵みが深く味わえる保養などを求める国内需要の拡大に対応して、必需“心”的な産業の育成に力を注がねばならない(例、長野県の株斑尾高原農場)。さらにはハイテク農業や自然系エネルギー産業など、地域特性を活かした先端産業の育成にも力を入れるべきだが、それとても最終のニーズが必需“心”にあることを忘れてはならない。

 第三に都市や住宅政策の方向も、人口減少の利点を有効に活用する方向へ舵とりを変えねばならない。例えば、過疎化の進行を嘆いてばかりいないで、増加する空き家を週末住宅やバカンス住宅に使えるように、都市住民へ積極的に仲介する組織を推進すべきだろう。あるいは野放図に広がるスプロール現象が終わった以上、都市や町村の居住地は思い切って集約化し、イタリア山岳都市のような、高密度ではあるが快適性の高いコンパクトシティーをめざすことが必要になる。

 第四に、以上のような対応を進めるには、地方行政もまた濃縮化を進めねばならない。人口減少が進み、税収の拡大が期待できない以上、行政行為の集中と時限化によって、コストパフォ−マンスの高い行政が必要になる。それにはまず、政策マーケティング(例、青森県)などの方法を採用して、県・市・町・村の行政行為を根本から見直し、それぞれが本質的・集中的に担当すべき分野を明確にすることがまず求められる。そのうえで実施する行政行為もまた、必ず期間を区切って、一定の時限立法として推進されねばならない。

地方銀行への期待が高まる
 地域社会がここまで変わる以上、地方銀行の役割も根本から変わってくる。今後、何が求められるのか、5つの視点からまとめてみよう。

 一つは、人口減少こそ地域再生のチャンスと考えることだ。日本全体が今や人口減少へ向かいつつある以上、すでに人口減少が始まった地域は、北欧や西欧と同じように先進地なのである。さらに一極集中のアルブル(樹木)型をめざした、従来の成長・拡大社会が崩れ、今後の日本は多極分散のリゾーム(地下茎)型へ向いつつある。こうした変化に対応するには、中央の構造とは異なる、独自の社会や経済構造をいち早く創りだすことこそ、先進地に与えられた、新たな使命になる。地方銀行はその中核とならねばならない。

  二つめは、地域づくりの目標の変化に敏感になることだ。先に述べたように、これからの地域づくりでは、目標の大きな変化に伴って、産業育成、町づくり、行政改革などの方向もまた転換していく。こうした変化に積極的に対応するには、地方銀行自体も従来の固定的な視野に留まらず、新たな地域需要にいっそう敏感になって、新規産業の育成や支援をさらに進めていかねばならない。

  三つめは、以上の方向を具体化するため、地域情報の蓄積をさらに進め、より有効に活用する体制を確立することだ。大手銀行に対する地方銀行の優位は、いうまでもなく地域内の細かい情報に精通していることだ。基本的にリゾーム化へ向かいつつある人口減少社会では、中央の見方がそのまま地方にも通用するとは限らない。地域独自の視点から今後の地域経済を的確にリードできるように、情報投資や分析ノウハウの開発を行って、地域情報を綿密に蒐集・分析できる体制を作ることが必要になる。

 四つめに、顧客の顔がいっそう見えるような経営をめざすべきだ。人口減少という一大転換期に際し、地域企業の経営者の多くは、今後の方向に戸惑っている。そうした中で、いち早く新たなコミュニティービジネスを創業したり、新しい農業・漁業企業などへ挑戦を試みる経営者も現れている。勿論、その全てが成功するわけではないが、それでも彼らの試みは新たな地域経済を作りだしていく先駆けとなる。とすれば、彼らとの情報交換をより密接にし、インタラクティブ(相互対話的)な関係を築くことで、1人ひとりの経営者の顔がよく見えるような経営をめざすことが必要になる。

 五つめに、地域の企業や起業家への資金提供に際しては、担保や連帯保証などの、より適正な運用が求められる。情報蒐集の高度化や顔の見える経営が進めば、審査・監視システムがより緻密になるから、貸し出し時の担保や連帯保証などは、必要最低限に留めることが可能になる。こうした対応が柔軟に行われるようになれば、21世紀の地域経済を真に担う経営者の発掘や新しい産業の育成を、いち早く推進することが可能になろう。

 こうしてみると、今後の地方銀行には、21世紀の日本をリードする、先行的な役割が期待されている。


1)朝治啓三・服部良久「概説 危機と再編」『西欧中世史(下)』ミネルヴァ書房,1995
2)速水融・宮本又郎「概説 17−18世紀」『日本経済史I』岩波書店,1989
3)L.R.ラデュリ 樺山紘一ほか訳『新しい歴史』新評論,1980
4)古田隆彦『凝縮社会をどう生きるか』NHKブックス,1998 に加筆


「人口減少時代の社会・経済と都市行政」
(東京都職員研修所・政策形成文庫『少子社会を考える』─1999,3)
現代社会研究所所長・青森大学社会学部教授・古田隆彦
〔21世紀は人口減少社会〕
21世紀の日本は人口減少社会へ向かっている。その背景には国内的要因と国際的要因がある。国内面では、いうまでもなく、わが国の総人口がすでに急激な減少へと向かい始めていることだ(図1)。国立社会保障・人口問題研究所の予測(1997年推計、中位値)によると、総人口は2007年に約1億2800万人でピークに達し、その後急減して2100年には6700万人になる。だが、1997年以降の出生数はすでにこの予測を下回っているから、今後はより低く推移し、参考推計値の「低位値」に近づく可能性が高い。その場合には、2004年に1億2700万人でピークに達し、2100年には5100万人になる。ピークの時期や最終人口の差はあるものの、いずれにしろ、21世紀の日本は確実に人口減少社会となり、人口増加が常態だった従来の社会とは対照的な社会に向かっていく。
もっとも、ここまで急激に人口が減りはじめると、当然その回復策として出生数の回復や外国人の受け入れといった諸政策が実施されることになろう。だが、結婚促進、妊娠奨励といった出生数の回復政策を採用したとしても、その成果は僅かなものだ。すでにスウェーデンやフランスなど西欧諸国が行った、幾つかの先例をみれば、膨大な税金を投入しても、さほどの効果はあがっていない。後述するように、人口抑制メカニズムという摂理が働いている以上、人為的な政策でいかに抗ろうとしても、その成果はたかがしれている。外国人の受け入れ政策についても、ドイツやスウェーデンの先例を見る限り、あまりに急激な導入は混乱を招くだけだから、実際に回復できるのはせいぜい一割程度、数にして500〜 700万人といったところだろう。
とすれば、さまざまな政策で人口を回復できたとしても、その数は限定的なもので、総人口の減少を食い止めるまでには至らない。
〔人口減少の本当の理由〕
人口が減少する、本当の理由は何か。それを正しく理解しておくことが、今後の社会を考えるうえで極めて大切である。
一般にマスコミや有識者などは、人口減少の理由として出生数の減少をあげ、さらにその直接的な背景として晩婚化、非婚化の急進をあげている。確かに直接的な理由はそこにある。
だが、総人口が減少するのは、出生数の減少に加えて、死亡数が増加するからである。出生数がどれだけ減ったとしても、死亡数が増えなければ、総人口が減るということはありえない。つまり、「少子・高齢化」ではなく、「少産・多死化」によって、人口が減少するのだ。
では、なぜ死亡数は増加するのか。それは平均寿命の伸び率が低下するためだ。そして、その背景には、栄養水準や医療水準の向上によっても、平均寿命がこれ以上大幅に延長することが無理になってきたという事情がある。言い換えれば、現代の経済・技術水準の限界のためである。
一方、出生数の減少原因である晩婚化・非婚化や夫婦間の少産化が進む要因は、生活水準の大幅な上昇が無理になってきたからである。経済が伸び悩み、所得の伸び率が落ちてくると、これ以上の生活の拡大は無理になってくるから、多くの人々は自分の生活や人生と結婚生活や子供を天秤にかけ、やはり自分を優先する生き方を選ぶようになってくる。その結果、子供の数を減らしていくのだ。
とすれば、人口減少の本当の理由は、現代日本を支えている諸条件の飽和化、言い換えれば「人口容量」の飽和化ということだ。人口容量とは、特定の国土を一定の文明によって利用した時、生存が可能になる人口のことである。
〔日本の人口波動〕
実をいえば、日本の人口減少は初めてではない。歴史を振り返ってみると、日本の人口容量は何度か拡大を遂げ、それに伴って人口も何度か増減を繰り返してきた。実際に日本人口の推移を特殊なグラフの上に描いてみると、5つの波が読み取れる(図2)。
人口容量を変化させた最大の要因は、文明の変化である。新しい文明が開発または導入されて、日本列島の自然的条件の利用法が変わる度に人口容量は増加し、それに伴って人口もまた増加していく。だが、人口容量の拡大が止まれば、人口も停滞または減少していく。なぜ停滞に留まらず減少へ向かっていくのか。簡単にいえば、出生数も死亡数も一旦増減が始まると、その傾向は簡単には止まらないからだ。
このようなプロセスによって、日本列島ではこれまでに5つの人口の波が生まれた。具体的にいえば、旧石器、新石器、粗放農業、集約農業、加工貿易文明の5つが開発されたり導入された結果、これに基づいて石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波という、5つの波が発生したのである(1)。この推移は、近代人口学の父、T.R.マルサスが『人口論』(2)の中で指摘した「人口波動(Oscillation)」に相当するから、「日本の人口波動」とよぶことができる。
以上の長期推移をみれば、今始まろうとしている人口減少が、5回目の人口容量の飽和化によることが容易に理解できよう。言い換えれば、加工貿易文明がもはや人口容量を拡大できなくなったためなのである。
〔人口抑制のメカニズム〕
人口容量の上限に近づいた時、人口が停滞する仕組みをもう少し説明しておこう。もし人口が上限を突破すれば、人間は大量餓死に至る。だが、人口は上限に達する前に、人口容量の範囲内で停滞し減少していくケースが多い。その理由について、R.G.ウィルキンソンは「餓死があるのかどうかを決定するのは、文化体系の偏差であって、人間の生理ではない」(3)という。つまり、文化が混乱している時には、人口がそのまま増えつづけて大量餓死に至るが、文化が安定している時には、人口抑制メカニズムが作動して餓死が避けられる、という意味だ。
ここでいう人口抑制メカニズムとは、人間が意志的、制度的、社会的に人口容量の制約に対応することだ。具体的には出生数抑制と死亡数増加であるが、双方に直接的抑制、間接的抑制、政策的抑制の3つの形態がある。
1)出生数抑制では、「直接的抑制」として妊娠抑制(避妊)や出産抑制(堕胎)など、「間接的抑制」として生活圧迫、結婚抑制、家族縮小、家族・子どもの価値の低下、都市化、社会的頽廃化など、「政策的抑制」として強制的出産抑制(例、一人っ子政策)、出産不介入(例、「産めよ増やせよ」政策の放棄)などがある。
2)死亡数増加では、「直接的抑制」として死亡増加の放置や不介入など、「間接的抑制」として飽食・過食による病気の増加、成人病の増加、性的伝染病の増加など、「政策的抑制」として姥捨て(老人遺棄)や強制間引き(嬰児殺し)などがある。
このような各種の人口抑制メカニズムを作動させて、文化の安定している限り、人間は人口を制御するのである。
それゆえ、日本の社会もまた、人口抑制を始めている。国土が狭く、これ以上人口容量の拡大が困難なために、安定した文化を持っている日本人は、人口抑制メカニズムを作動させている。つまり、今始まりつつある人口減少は、先進国の一つとして極めて正常な現象なのである。
勿論、こうした動向は日本に限るものではなく、広く先進国に共通している。例えば北欧、西欧諸国など国土の狭い先進諸国では、人口容量の飽和化に伴って人口抑制メカニズムが作動し始め、1970年代から人口停滞が始まっている。同様の傾向は1990年代から21世紀初頭にかけて、南欧から東欧諸国へと広がりつつある。
しかし、同じ先進国ではあっても、国土の広いアメリカ、カナダ、オーストラリアなどは、21世紀の中頃まで人口が増加していく。あるいは中国やインドがこれに追随しようとしている。その意味では、これらの国々は決して人口の「先進国」ではなく、人口増加の「途上国」なのである。
〔トリレンマへの対応〕
日本が人口減少社会へ向かう、もう一つの要因は、人口・資源・環境のトリレンマに陥りつつある地球社会へ対応していくためだ。
国連人口部の予測(1992年、中位値)によると、世界の人口は2000年の62億人から2025年の85億人を経て、2050年に 100億人、2100年に110 億人に達する(図3)。だが、食糧・資源・エネルギーの需給バランスや環境問題を考えると、現在の地球で実際に生存可能な人口はどうみても80億人程度だ(4)。
それゆえ、このまま人口が増加し続ければ、2020年代には大パニックに陥る。これを避けるには、先進諸国は率先して人口を抑制し、かつ食糧・資源・エネルギーの消費もまた節約し、かつ環境保全に努力しなければならない。つまり、21世紀の先進国とは、成長・拡大を続ける国ではなく、人口・資源・環境のトリレンマを解決すべく、人口減少と生活凝縮を進める国なのである。とすれば、先進国の一翼を担うわが国もまた、この方向をめざす義務があろう。
以上のように、国内的には人口減少の進行、国際的にはトリレンマの対処という二つの面への対応を考えれば、21世紀の日本が人口減少社会へ向かっていくのは、極めて当然かつ必然的なことだ。言い換えれば、21世紀の日本は、これまでの拡大型国家志向を大きく転換して、新たに凝縮型国家へ移行していくことが必要なのである(5)。
かくして、21世紀の日本は間違いなく人口減少社会となり、人口増加が常態だった19〜20世紀とは対照的な社会になる。そうなると、今や必要なことは、国家目標はもとより、経済、産業、生活、都市行政などの諸政策についても、人口減少社会に見合った方向へ転換していくことが必要になる。
〔ゼロ成長でも豊かになる〕
それでは、人口減少社会とは一体どんな社会なのか。経済面でいえば、例えGDP(国内総生産)がゼロ成長であっても1人当たり所得は伸びる。従来の人口増加社会では、増加する人口に対応するため、食糧・衣料・住宅などの原資、つまりGDPの拡大が不可欠であった。増え続ける国民一人ひとりのパイを確保するためには、全体のパイを増やすことが必要であったからだ。
ところが、21世紀の初頭から人口が減り始めると、GDPが全く伸びなくとも横這いでありさえすれば、1人当たりGDPは増加できる。13人で分け合っていたパイは、10年単位で12人、11人と頭数が減るにつれ、次第に分け前が増えてくるからだ。実際、現在のGDP約 500兆円が今後も維持できれば、1人当たりのGDPは現在(96年)の 397万円から、2020年には実質 412万円(1.04倍)、2050年には同 542万円(1.37倍)に増える。
そうなると、人口増加分だけGDPを伸ばさなければならないとか、生活水準向上のために、GDPを伸ばすべきだという議論は全く根拠を失う。さらにGDP拡大を至上主義とした馬車馬的な拡大社会を一旦棚上げにして、ともすればなおざりにしてきた環境問題、所得格差、地域格差、社会病理などを、ゆっくり修復・調整する機会も生まれてくる。他方、国際的にも、トリレンマに向かう地球社会を考えれば、わが国のゼロ成長化は大きな国際貢献になろう。
もっとも、こうした方向を実現するには、かなりの努力が必要だ。実際には人口減少に伴って需要面では購買力の減少が、供給面では労働力人口の減少や年齢構成の上昇で労働力の量的減少・質的低下が懸念され、当然、GDPの低下も起こりうる。そこで、こうした難問を克服するには、より少ない労働力で従来の生産を維持するため、1人当たりの労働生産性や付加価値生産性を上げることが必要になる。
前者を高めるためには、FA(ファクトリーオートメーション)やOA(オフィスオートメーション)など、ロボット化やコンピューター化が急務だろう。1人の労働者がそれらを駆使すれば、 1.5人分、2人分の仕事が可能になるからだ。
一方、後者を高めるためには、モノやサービスの価値を物量的なものから情報的なものへ、表層的な次元から深層的な次元へ、と変えることが必要になる。一例をあげれば、エレクトロニクスやバイオテクノロジーに見られるように、モノそのものの物量的価値よりも、電子や遺伝子など“情報搬送装置”としての価値を高めることだ。あるいは、商品・サービス・情報網の上に、必需的な“使用価値”だけでなく、カラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなどの“記号価値”や参加、愛着、審美、信仰などの“心理的効用”を付加することが必要になろう。
つまり、生産の比重をモノからコト(コトバ、デキゴト=サービス)へ移していくことだが、それは高付加価値化としてだけでなく、資源・環境問題への対応策としても必要な対応なのだ。それゆえ、これからの日本人には、そうした付加価値を生み出せる能力が求められる。
〔利点を伸ばし、欠点を抑える〕
社会面でも、プラス、マイナス両面でさまざまな変化が起こる。まず人口減少に伴うマイナス面を考えると、少子・高齢化の進行で高齢者の年金・医療・福祉など社会保障費用の負担が増加するし、また子どもの数が少なくなると、子ども同士や異年齢間の交流の機会が減少し、かつ両親の過保護などで、彼らの社会性の育成が妨げられるなど、青少年の弱体化も懸念される。さらに単身者や子どものいない世帯が増加すると、社会の基礎的単位である家族の形態が大きく変化して、家族形態がますます縮小していくおそれもある。
しかし、これらの危惧のかなりの部分は杞憂だろう。スタンフォード大学のP.エーリック教授によると、老人扶養費の上昇分は子どもの教育コストの減額で大部分が相殺されるし、健康水準の上昇で六五歳以上の働き手が増えるから、逆に減少していくケースも考えられる。社会的革新力の低下も、新しい考え方と経験のバランスをとる中年層の増加で十分補えるという(6)。
教授の考え方をわが国に当てはめると、例えば高齢者の定義を75歳以上にくりあげた場合、2025年のその数は1889万人(16%)で、現在の65歳以上の1900万人(15%)とほとんど変わらない。他方、生産年齢人口(15〜74歳)は8484万人(72%)で、現在の8716万人(69%)より 229万人減るものの、構成比では3ポイント増加する。
また、年少人口は1373万人で、現在より 598万人減り4ポイントも低下する。その結果、生産者比率の横ばいと教育コストの減少で、高齢者扶養をある程度まかなうことが可能になる。つまり、15〜64歳を生産年齢と考える従来の常識を改めれば、人口減少社会の慢性的な人手不足の下では、高齢者はもちろん、女性や弱者までもが一生一人前に働けるから、扶養負担も当然低下していく。
一方、人口減少のプラス面もかなり多い。人口密度が低下すると、環境への負荷が減少し、自然環境への侵犯が抑えられるばかりか、過去の破壊も復修される可能性が高まる。また大都市での住宅・土地問題や交通混雑の緩和も期待できるし、現在のインフラを適切なメンテナンスできれば、1人当たりの社会資本も増加していく。さらに密度の濃い教育が実現され、受験競争も緩和されるから、教育の質的充実化も期待できる。
食糧や資源面でも、過度の輸入を抑えて、自給自立体制が向上できるし、人口増加を支えるための生産拡大は不要になるから、生産優先社会を縮小して生活優先社会への転換が進展する。消費市場においても、永い人生経験で選択眼を肥やした人々が、その膨大な貯蓄を前提に、消費や流行の決定権を握るようになるから、“新しさ”や“流行”よりも“年季”や“伝統”の比重が上がるし、社会風潮でも“成熟”や“落ち着き”が主流になるから、成熟した社会が実現されていく。
以上のように、人口の減少する凝縮社会では確かに欠点も多い。だが、それらを克服していけば、利点もまた大きい。つまり、人口減少社会では、従来の固定観念を捨てて、できるだけ柔軟で自由な視点から諸問題に取り組んでいくことが必要なのである。
〔人口減少時代の有望産業〕
社会・経済構造が以上のように変わるとすれば、産業界もまた新たな対応を迫られる。そこで、今後伸ばすべき産業を展望してみると、次の6つの分野が浮んでくる。
真先に浮上するのは、人口減少が人口容量の飽和化に伴うものである以上、環境や資源に対応する産業だろう。続いて経営環境に変化に伴って、需要の縮小へ対応する産業や、労働力不足へ対応する産業が伸びてくる。一方、人口構造の変化により、少子化へ対応する産業と高齢化に対応する産業、そしてこれらの変化が促す家族の多様化に関連する産業が有力となろう。以下では各産業の凡その方向を示しておこう。
第1の環境・資源制約対応産業では、現在の環境をこれ以上悪くしないための環境保全対応、資源・エネルギーを節約する省資源・省燃料対応、すでに汚染された物質から身を守る汚染回避対応、環境を全体に改善していく総合的環境対応などに関する産業などが伸びてくる。
第2の需要量縮小対応産業では、量的に縮小していく消費市場を質的に補うため、高付加価値化をめざして、ハイテク応用による高機能付加、カラー、デザイン、ストーリーなどの高記号付加、神話や幸運などを乗せる神話付加、自作の満足や愛着を重視する効用付加などに関連する商品やサービスが伸びる。またTPOを重視した複数化、性別・年齢・地域を超える需要層拡大、業種や業態の転換などを推進していく産業も広がるだろう。
第3の労働力減少対応産業では、ロボット化・FA化やコンピューター化・OA化(を推進する機械化代替産業や、未利用労働力や外国人を活用するための労働力活用産業、そして高付加価値を生み出すための知的能力の向上に関する分野が伸びてくる。
第4の少子化対応産業では、すでに生まれ、今後も増えていく少子化世代に対応する消費・サービス産業と、出生数を回復させるため、結婚や妊娠などを促す、さまざまな産業が伸びてくるだろう。
第5の高齢化対応産業では、まだ元気で若々しい前期高齢者(65〜74歳)向けの産業と、介護や治療、そして葬儀や墓地などを生前に手配しようとする後期高齢者(75歳以上) 向けの産業が伸びてくる。
第6の家族多様化対応産業では、若年単身者や高齢単身者の増加に対応する商品やサービス、、今後増加する母子・父子家庭やステップ・ファミリー(再婚者同士の家庭)など、多様化した家族向けの商品やサービスが伸びてくる。
このように、21世紀の有力産業とは、人口減少に伴う凝縮社会化に積極的に対応していく分野なのである。
〔都市行政も発想の転換を〕
以上のような発想の転換は、産業界だけでなく、都市行政にとっても必要だろう。人口の減少する凝縮社会が到来すれば、大都市でも急速な進行する高齢化で、高齢単身者の保護需要が急増するなど、新たな問題が顕在化してくる。他方、過疎地域はますます過疎化するし、さらに広範な地域で過疎化・高齢化が進行して、防災自衛組織や福祉サービス・医療保険の制度的運営などの基礎的サービスが困難になる。産業も縮小するし、税収も減少するおそれもあるからだ。
こうした問題に速効的に対応しようとすれば、とりあえずは地域人口の維持・回復をめざして、出産や育児のための補助を増加させたり、外国人、とりわけ日系人の受け入れを積極的に進めることが必要だろう。だが、すでに述べたように、こうした政策の実施にはさまざまな困難がつきまとううえ、その効果もさほど確実とはいいがたい。
とすれば、むしろ人口減少を不可避と受け止めて、その利点を最大化し、欠点を最小化する方向へ目標を転換したほうが現実的ではないか。その方向とは、例えば次のようなものだ。
1)人口減少とゼロ成長経済が常態化する以上、都市の税収もまたゼロ成長となる可能性が強い。とすれば、今後の都市運営は伸び率ゼロの予算を前提に、行政行為の統廃合と新規・開発行為の選別を、より厳しく行う必要がある。
2)人口減少に伴う市民数の停滞と労働力減少に伴う公務員の減少が進む以上、業務範囲の適正化とともに、行政行為の高能率化が必要になる。
3)少なくなった人口で地域経済を維持していくため、OAやFA化へ対応でき、かつソフトな付加価値を生産できる知的人材を養成するため、教育整備や能力開発を重点的に推進することが求められる。
4)公務員の減少を生産性の向上で補う一方、地域産業の高付加価値化をリードするためにも、各自治体が率先してFA化やOA化を推進することが急務になる。
5)良好な自然環境、ゆとりのある社会環境、成熟した人間関係、安全な農産物など、人口減少のもたらす利点を最大に活用するため、都会人のために週末住宅や休暇住宅、週末農業や長期滞在型産業など、マルチハビテーションを積極的に推進することが望ましい。
6)工場誘致や観光開発よりも、情報化・ソフト化産業を担いうる人材そのものの誘致を積極的に推進することが有効である。
7)過疎化対応として、住民の居住地の集約化やサービス拠点の集約化・ネットワーク化などを推進し、福祉・防災のサービス水準を維持するとともに、いっそうの効率化をはかることが望まれる。
結局、以上のような政策とは、人口減少をマイナスと考えず、むしろ絶好のチャンスとして受け止め、積極的に対応しようとするものだ。さらにいえば、人口減少に伴う凝縮社会こそ、21世紀の世界をリードしていくという自覚を今一度確認することでもある。
(注)
(1)古田隆彦『人口波動で未来を読む』日本経済新聞社、1996
(2)T.R.マルサス、大淵寛他訳『人口の原理 第6版』中央大学出版会、1985
(3)R.G.ウィルキンソン、斉藤修他訳『経済発展の生態学』リプロポート、1985
(4)D.L.メドウズ他、茅陽一監訳『限界を超えて』ダイヤモンド社、1992
(5)古田隆彦『凝縮社会をどう生きるか』日本放送出版協会、1998
6()P.& A.エーリック、水谷美穂訳『人口が爆発する!』新曜社、1994


「凝縮社会への転換と地域行政の方向」
(地方自治職員研修,432号,1998年)
現代社会研究所所長・青森大学社会学部教授・古田隆彦
〔二一世紀は凝縮社会〕
二一世紀の日本は、凝縮社会に向かっていくだろう。凝縮社会とは、従来のように成長や拡大を目標とせず、縮小と熟成を求める社会である。
理由は二つある。一つはわが国の人口が急減していくことだ。国立社会保障・人口問題研究所の予測(一九九七年推計、中位値)によると、わが国の総人口は二〇〇七年に約一億二八〇〇万人でピークに達し、その後急減して二一〇〇年には六七〇〇万人になる。だが、一九九七年の出生数はすでにこの予測を下回っているから、今後はより低くなり、参考推計値の「低位値」に近づく可能性が高い。その場合には、二〇〇四年に一億二七〇〇万人でピークに達し、二一〇〇年には五一〇〇万人になる。
ここまで人口が減りはじめると、当然その回復策として出生数の回復や外国人の受け入れといった諸政策が実施されることになろう。だが、その場合でも、実際に回復できるのは、欧州先進国の先例を見る限りせいぜい一割程度で、数にして五〇〇〜七〇〇万人といったところだ。とすれば、二一世紀の日本は間違いなく人口減少社会となり、人口増加が常態だった一九〜二〇世紀とは対照的な社会になる。
もう一つは、地球単位で進む人口・資源・環境のトリレンマへの対応だ。国連人口部の予測(一九九二年、中位値)によると、世界の人口は二〇〇〇年の六二億人から、二〇二五年の八五億人を経て、二〇五〇年に一〇〇億人、二一〇〇年に一一〇億人に達する。だが、食糧・資源・エネルギーの需給バランスや環境問題を考えると、現在の地球で実際に生存可能な人口はどうみても八〇億人程度だ(メドウズ/ランダース『限界を超えて』ダイヤモンド社)。
それゆえ、このまま人口が増加し続ければ、二〇二〇年代には大パニックになる。これを避けるには、先進諸国は率先して人口を抑制し、かつ食糧・資源・エネルギーの消費もまた節約しなければならない。つまり、二一世紀の先進国とは、成長・拡大を続ける国ではなく、人口・資源・環境のトリレンマを解決すべく、人口減少と生活凝縮を進める国なのである。
以上のように、国内的には人口減少、国際的にはトリレンマという二つの面への対応を考えれば、二一世紀の日本が人口の減少する凝縮社会へ向かっていくのは、極めて当然かつ必然的なことなのである。
〔ゼロ成長でも豊かになる〕
凝縮社会とは、一体どんな社会なのだろうか。経済面でいえば、例えGDP(国内総生産)がゼロ成長であっても一人当たり所得は伸びる。従来の人口増加社会では、増加する人口に対応するため、食糧・衣料・住宅などの原資、つまりGDPの拡大が不可欠であった。増え続ける国民一人ひとりのパイを確保するためには、全体のパイを増やすことが必要であったからだ。
ところが、二一世紀の初頭から人口が減り始めると、GDPが全く伸びなくとも横這いでありさえすれば、一人当たりGDPは増加できる。一三人で分け合っていたパイは、一〇年単位で一二人、一一人と頭数が減るにつれ、次第に分け前が増えてくるからだ。実際、現在のGDP約五〇〇兆円が今後も維持できれば、一人当たりのGDPは九六年の三九七万円から、二〇二〇年には実質四一二万円(一・〇四倍)、二〇五〇年には同五四二万円(一・三七倍)に増える。
こうなると、人口増加分だけGDPを伸ばさなければならないとか、生活水準向上のために、GDPを伸ばすべきだという議論は根拠を失う。他方、トリレンマに向かう地球社会を考えれば、わが国のゼロ成長化は大きな国際貢献だ。さらに国内的にも、GDP拡大を至上主義とした馬車馬的な拡大社会を一旦棚上げにして、ともすればなおざりにしてきた環境問題、所得格差、地域格差、社会病理などを、ゆっくり修復・調整する機会も生まれてくる。
もっとも、こうした方向を実現するには、かなりの努力が必要だ。実際には人口減少に伴って労働力も減少するし、内需も縮小するから、GDPの低下も起こりうる。これを克服するには、より少ない労働力で従来の生産を維持するため、一人当たりの労働生産性や付加価値生産性を上げることが必要になる。
前者を高めるためには、FA(ファクトリーオートメーション)やOA(オフィスオートメーション)など、ロボット化やコンピューター化が急務だろう。一人の労働者がそれらを駆使すれば、一・五人分、二人分の仕事が可能になるからだ。
一方、後者を高めるためには、モノやサービスの価値を物量的なものから情報的なものへ、表層的な次元から深層的な次元へ、と変えることが必要になる。一例をあげれば、エレクトロニクスやバイオテクノロジーに見られるように、モノそのものの物量的価値よりも、電子や遺伝子など“情報搬送装置”としての価値を高めることだ。あるいは、商品・サービス・情報網の上に、必需的な“使用価値”だけでなく、カラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなどの“記号価値”や参加、愛着、審美、信仰などの“心理的効用”を付加することが必要になろう。
つまり、生産の比重をモノからコトへ移していくことだが、それは高付加価値化としてだけでなく、資源・環境問題への対応策としても必要な対応なのだ。それゆえ、これからの日本人には、そうした付加価値を生み出せる能力が求められる。
〔利点を伸ばし、欠点を抑える〕
社会面では、さまざまな利点とともに欠点も予想できる。利点でいえば、人口減少で人口密度が低下する以上、環境への負荷が減少し、自然環境への侵犯が抑えられるばかりか、過去の破壊も復修される可能性が高まる。また大都市での住宅・土地問題や交通混雑の緩和も期待できるし、現在のインフラを適切なメンテナンスできれば、一人当たりの社会資本も増加していく。さらに密度の濃い教育が実現され、受験競争も緩和されるから、教育の質的充実化も期待できる。
食糧や資源面でも、過度の輸入を抑えて、自給自立体制が向上できるし、人口増加を支えるための生産拡大は不要になるから、生産優先社会を縮小して生活優先社会への転換が進展する。消費市場においても、永い人生経験で選択眼を肥やした人々が消費や流行の決定権を握るようになるから、“新しさ”や“流行”よりも“年季”や“伝統”の比重が上がるし、社会風潮でも“成熟”や“落ち着き”が主流になるから、成熟した社会が実現されていく。
一方、欠点としては、人口減少に伴って需要面では購買力の減少が、供給面では労働力人口の減少や年齢構成の上昇で労働力の量的減少・質的低下が懸念される。少子・高齢化の進行で高齢者の年金・医療・福祉など社会保障費用の負担が増加するし、また子どもの数が少なくなると、子ども同士や異年齢間の交流の機会が減少し、かつ両親の過保護などで、彼らの社会性の育成が妨げられるなど、青少年の弱体化も懸念される。さらに単身者や子どものいない世帯が増加すると、社会の基礎的単位である家族の形態が大きく変化して、家族形態がますます縮小していくおそれもある。
しかし、これらの危惧のかなりの部分は杞憂だろう。スタンフォード大学のP・エーリック教授によると、老人扶養費の上昇分は子どもの教育コストの減額で大部分が相殺されるし、健康水準の上昇で六五歳以上の働き手が増えるから、逆に減少していくケースも考えられる。社会的革新力の低下も、新しい考え方と経験のバランスをとる中年層の増加で十分補えるという(『人口が爆発する!』新曜社)。
教授の考え方をわが国に当てはめると、例えば高齢者の定義を七五歳以上にくりあげた場合、二〇二五年のその数は一八八九万人(一六%)で、現在の六五歳以上の一九〇〇万人(一五%)とほとんど変わらない。他方、生産年齢人口(一五〜七四歳)は八四八七万人(七二%)で、現在の八七一六万人(六九%)より二二九万人減るものの、構成比では三ポイント増加する。
また、年少人口は一三七三万人で、現在より五九八万人減り四ポイントも低下する。その結果、生産者比率の横ばいと教育コストの減少で、高齢者扶養をある程度まかなうことが可能になる。つまり、一五〜六四歳を生産年齢と考える従来の常識を改めれば、人口減少社会の慢性的な人手不足の下では、高齢者はもちろん、女性や弱者までもが一生一人前に働けるから、扶養負担も当然低下していく。
以上のように、人口の減少する凝縮社会では確かに欠点も多い。だが、それらを克服していけば、利点もまた大きい。つまり、凝縮社会では、従来の固定観念を捨てて、できるだけ柔軟で自由な視点から諸問題に取り組んでいくことが必要なのである。
〔地域行政も発想の転換を〕
こうした発想の転換は、とりわけ、これからの地域行政にとっても必要だろう。
確かに人口の減少する凝縮社会となれば、現在の過疎地域はますます過疎化するし、さらに広範な地域でも過疎化・高齢化が進行し、防災自衛組織や福祉サービス・医療保険の制度的運営などの基礎的サービスが困難になる。産業も縮小するし、税収も減少するおそれもある。大都市でも急速な進行する高齢化で、高齢単身者の保護需要が急増するなど、新たな問題が顕在化してくる。
こうした問題に速効的に対応しようとすれば、とりあえずは地域人口の維持・回復をめざして、出産や育児のための補助を増加させたり、外国人、とりわけ日系人の受け入れを積極的に進めることが必要だろう。だが、こうした政策の実施にはさまざまな困難がつきまとううえ、その効果もさほど確実とはいいがたい。
とすれば、むしろ人口減少を不可避と受け止めて、その利点を最大化し、欠点を最小化する方向に目標を転換したほうが現実的だろう。その方向とは、例えば次のようなものだ。
1)過疎化対応として、住民の居住地の集約化やサービス拠点の集約化・ネットワーク化などにより、福祉・防災のサービス水準を維持するとともに、いっそうの効率化をはかる。
2)公務員の減少を生産性の向上で補う一方、地域産業の高付加価値化をリードするため、各自治体が率先してFA化やOA化を推進する。
3)少なくなった人口で地域経済を維持していくため、OAやFA化へ対応でき、かつソフトな付加価値を生産できる知的人材を養成するため、教育整備や能力開発を重点的に推進する。
4)良好な自然環境、ゆとりのある社会環境、成熟した人間関係、安全な農産物など、人口減少のもたらす利点を最大に活用するため、都会人のために週末住宅や休暇住宅、週末農業や長期滞在型産業など、多住居住制を積極的に推進する。
5)工場誘致や観光開発よりも、情報化・ソフト化産業を担いうる人材そのものの誘致を積極的に推進する。
結局、こうした政策とは、人口減少をマイナスと考えず、むしろ絶好のチャンスとして受け止め、積極的に対応しようとするものだ。さらにいえば、人口減少地こそ凝縮社会の先進地であり、かつ二一世紀の日本と世界をリードしていくという自覚を今一度確認することでもある。

Copyright (C)Gendai-Shakai-Kenkyusho All Rights Reserved.
TOP INDEX