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「平成享保」は、古田隆彦が日本経済新聞・平成元(1989)年9月18日夕刊で初めて使用した新語です。
このページでは、関連する論文や記事を紹介します。 |
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平成享保
古田隆彦(日本経済新聞・1989年9月18日夕刊・・・「平成享保」の初出・以下は要旨) |
日本の人口は今、大きな曲がり角にさしかかっており、あと20年後に人口の停滞する社会が迫っている。人口が伸びなければ、生活水準、消費水準が一定である限り、内需もまた全く伸びない時代になる。
そこで、1990年から2010年までの20年間は、約160年間続いてきた成長・拡大型の社会システムや生活様式を、飽和・安定型のそれへと移行させる一大転換期になるだろう。
260年前に、同じような時代があった。江戸時代の人口は1710年頃から飽和しはじめ、その後1730年までの約20年間は成長から停滞への転換期となった。この時代を貫くテーマは、「放漫財政から緊縮財政へ」「金銀輸出から俵物(たわらもの=実物)輸出へ」「享楽主義から倹約主義へ」「好色文学から義理文学へ」など、それまでの水ぶくれ社会を、いかにしてスリムな社会に切り換えていくかとなった。
とすれば、1990年からの20年間も同じように「調整の時代」となり、成長・拡大の絶頂期であった「昭和・元禄」にならって、「平成・享保」とでもよばれることになろう。 |
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昭和・元禄から平成・享保へ
古田隆彦『ボーダレス・ソサイエティ・・・時代は「昭和・元禄」から「平成・享保」へ』P196〜197
(PHP研究所、1989年12月刊) |
(江戸中期の)「武断政治から文治政治へ」「放漫財政から緊縮財政へ」「金銀輸出から俵物(たわらもの=実物)輸出へ」「享楽主義から倹約主義へ」「好色文学から義理文学へ」と移行する時代のテーマは、いずれも成長・拡大から飽和・安定へという転換期特有の課題を反映している。つまり、江戸文明の限界下で、いかにして安定した社会を作れるか、が問われていたのだ。
江戸中期の転換期が示すさまざまな社会現象は、明治維新後122年、日露戦争後84年、太平洋戦争後44年めにあたる現代にも通じるところがある。最近の風潮である「工業かから情報化へ」「大きな政府から小さな政府へ」「享楽主義から純愛主義へ」などを思い起こせば、そのことはすぐに理解できよう。いわば「昭和・元禄から平成・享保へ」といえる動きである。
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平成享保とは |
「昭和元禄」という言葉は実は1964年、自民党の福田赳夫氏が、池田総裁の三選出馬をけん制して述べたもの。
今は「平成享保」と名付けたのは現代社会研究所の古田隆彦所長。
元禄から宝永を経て享保まで28年。昭和元禄が流行語になった68年から数えると、来年は享保元年にあたる。
平成の景気停滞は戦後最長を更新するのは確実と見られる。「今こそ心の充実、ハートコンシャスが大切だ」という。
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(1995年2月18日、東京読売新聞「あの言葉・戦後50年」要旨) |
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同じ人口減少期の享保時代に学べ
現代社会研究所所長 古田隆彦
(毎日新聞・中部版・正月特集・少子化が社会を変える、2000年1月1日)
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来るべき人口減少社会をどう生きるか。岐阜県出身の研究者で、10年ほど前から、同じ人口下降期だった江戸中期の社会との類似点に着目し、「平成享保」時代の到来などユニークな社会予測や提言を続けている古田隆彦・現代社会研究所所長に聞いた。
●「江戸に習え」といろいろな媒体を通じておっしゃってますね。
少子化だとか、人口減少で「日本はこれから大変だ」「見通しが全くない」なんて声をよく聞きます。しかし、実は日本が人口下降期を迎えるのは初めてではないのです。旧石話時代後期、縄文後期、平安・鎌倉、江戸中期と、これまでにわれわれは4回も人口下降期を経験しています。特に江戸時代のことはふんだんに情報があるわけですから、それを利用しない手はない。何も恐れることはないと思うのです。
●江戸中期と言えば約100年を経た幕藩体制がいろいろな意味でほころびを見せ始めたころですね。
商品経済が急速に広まった元禄期を経て、農業を基盤とした社会に陰りが見えてくる時代です。気象の悪化を原因としてききんが相次ぎ、人口もそれを契機に減少していきますが、一方で、江戸時代の農業の生産はこの時期をピークにだんだん頭打ちの状態になっていきます。いわば、それまでの集約農業が限界近くまで成熟し、飽和してしまったのです。その閉そく状況が心理的に少子化を意識させたと思いますね。
●現代に置き換えれば、それが工業社会の成熟ということですか。
そうです。昭和元禄をバブル経済期とすればヽ享保期から化政期にかけて矢継ぎ早に叫ばれる「改革」ブームが現代でしょうか。「平成享保」とは、そんな時代の到来を予測した言葉でした。それでも悲観することはありません。享保以降の時代は、江戸に新しい町民文化が広まり、「粋」や「通」といった独特な美意識が生まれた時代です。江戸時代を代表する浮世絵もこの時期、黄金期を迎えました。貸本屋や寺子屋が増加しヽ識字率も急速に上昇した文化の爛熟期なのです。
●その「平政享保」は何を生み出すでしょう。
新しいライフスタイルや価値観でしょう。私自身には、今の工業社会がもう一歩進化したような第2次工業化時代がやってくるかもしれないという思いがあります。たとえば、衝突しても死者が出ないような、ぶよぶよした素材の軟らかい自動車の開発であったらいいなあ、なんて思います。しかし、それを生み出すのは
私たち一入ひとりなのです。起業家としては300年に1度の絶好のチャンスだと、むしろ喜びたいですね。
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成熟文化・・・平成享保のファッション
現代社会研究所所長 古田隆彦(繊研新聞,2000年10月30日) |
●竜馬など現れない!
世の中に閉塞感が強まっているせいか、竜馬、西郷、海舟など、維新の英傑の再来が待望されている。
テレビや新聞でも、現代を幕末に見立てて、「平成維新」とか「第三の開国」などという主張が見られるし、若手の国会議員や新進のベンチャー経営者までが、「いでよ龍馬」などという芝居を演じている。
だが、こうした見方はいずれも的外れだ。現代日本と幕末では、単に時代が違うというだけでなく、もっと根本的にベースとなる社会構造が違っている。人口社会学から見ると、現代日本は総人口が増加から減少への移行期にあるのに対し、幕末の日本は総人口が微増から急増への転換期であった。これはまさに正反対の位置である。
人口の動きは社会の変化を敏感に反映する。幕末には、近代西欧文明の流入で、農民や町人も将来への明るい展望を持って、人口を増やし始めていたが、旧体制の維持を狙う徳川幕府が、この動きを抑えようとしたため、鬱積した大衆の不満が爆発して維新となった。龍馬のほんのひと突きで社会が変わったのは、一触即発の状態だったからだ。
ところが、平成という時代は、社会や経済がもうこれ以上伸びない、という状況にある。多くの国民が膨らみきった欲望をほとんど満足させ、これ以上生活水準が上げれば、間もなく資源不足や環境悪化を招くことを自覚し始めている。政治や行政には不満はあるが、それは閉塞状況を突破できないからではなく、閉塞状態へ軟着陸できないことへの苛立ちである。
このように時代の基盤が本質的に違っている以上、平成を幕末に見立てるのはまったく見当違いだ。そればかりか、今後の方向を見誤ることになる。
●昭和元禄から平成享保へ
もし平成という時代を江戸期に見立てるなら、「享保」である。筆者は十二年も前に、新聞や著書の中で「昭和元禄から平成享保へ」の移行を予言した。「バブル経済からポストバブル経済へ」「放漫財政から緊縮財政へ」「享楽消費から堅実消費へ」などと書いたが、この予言はほとんど的中した。
なぜ当たったのか。それは享保も平成も、ともに総人口がピークとなる時代であるからだ。享保期には、当時の社会・経済を支えた農業生産の拡大がほぼ限界に達し、また平成期には、現代日本を支える加工貿易体制がほぼ限界に近づきつつある。つまり、社会・経済の容量が満杯になる点で、二つの時代は共通している。
とすれば、今、私たちが向かっているのは、決して「幕末」や「維新」ではなく、「享保」から「化政」に至る江戸中期の百年間なのである。この百年間とはどんな時代だったのか。
元禄バブルの崩壊後、八代将軍徳川吉宗は享保改革を断行して、社会の引き締めとデフレ政策を進めた。その結果、江戸の町は火の消えたように沈んだため、次の老中田沼意次は小バブル政策を展開して、町民の不満をなだめた。が、再び享楽主義がはびこったため、その次の老中松平定信は寛政改革で贅沢禁止とデフレ政策をとった。
すると、「白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」と批判されたため、十一代将軍徳川家斉は再び大奥バブルを展開して、町民に媚を売った。しかし、やはり財政が悪化したため、次の老中水野忠邦は天保改革を実施して、やはり引き締めとデフレ政策へ向かっていった。
つまり、この百年は、農業生産が伸び悩む中で、引き締めと緩和、インフレとデフレが小刻みに繰り返された時代だった。
●江戸型ファッション社会
こう書くと、江戸中期はなんとなく暗い。だが、そうではない。この百年は、学問や文芸が栄える一方、歌舞伎、浮世絵、戯作などの町民文化が勃興した、まさに“高度情報化”の時代だったからだ。
ファッションの世界でも、遊廓と歌舞伎から次々に生まれた「はやり」が、「五年か八年の間にすたり」(女重宝記)といわれるほど、激しく変わった。
遊廓からは、刺繍入りの着物、曙染めの友禅模様などが生まれたし、また歌舞伎からは、名優の衣装をまねて、水木辰之助の「水木帽子」、上村吉弥の「吉弥結び」、初世沢村宗十郎の「宗十郎頭巾」を始め、小太夫鹿子、市松染、亀屋小紋、仲蔵染などの染め模様が流行した。
色彩でも、二世瀬川菊之丞の「路考茶」、初丗尾上菊五郎の「梅幸茶」、五世岩井半四郎の「岩井茶」など、渋茶、鶯茶、利休鼠、萌葱など、落ちついた色が主流となった。
決定版は二世市川団十郎の「助六」。黒羽二重の無地の小袖に紅絹裏(もみうら)、浅葱の襦袢、綾織の帯、鮫鞘の刀に桐の下駄という、斬新なファッションで、東都の流行を制した。
このように、江戸中期の社会では、人口停滞で少産・長寿化が進み、インフレ・デフレが繰り返される中で、渋い色、小紋、裏地など、極めて成熟した着物文化が創造された。表面的な華麗さを“野暮”とみなし、裏側の抑えられた趣向を“通”や“粋(いき)”として尊ぶ、江戸町人の美意識である。
そして、この美意識がその後、さらに優れた絹織物、陶磁器、漆器、印籠・根付などを生み出し、やがて幕末に欧州に輸出されて、近代日本の経済的基礎を固めていったのだ。
人口の減少する二十一世紀の日本も、同じような時代になるだろう。そういう時代であればこそ、ファッション産業に期待されるのは、成熟した美意識を生み出す努力なのである。
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平成享保・・・予測が的中したバブル崩壊
古田隆彦『人口減少 日本はこう変わる』P20〜21(PHP研究所、2003年9月刊) |
1989(平成元)年といえば、平均株価が3万8915円(12月29日)と、史上最高となった年です。いわゆるバブル経済が絶頂に達し、経済学者や評論家のほとんどが「日本経済はこのまま拡大を続ける」と口々に唱えていた頃です。
そんな風潮の中で、私はある新聞に「平成享保」というコラムを寄稿し、こうした社会は間もなく終わり、大変厳しい時代が近づいている、と警告しました。その要旨は次のようなものです。
日本の人口は今、大きな曲がり角にさしかかっており、あと20年後に人口の停滞する社会が迫っている。人口が伸びなければ、生活水準、消費水準が一定である限り、内需もまた全く伸びない時代になる。
そこで、1990年から2010年までの20年間は、約160年間続いてきた成長・拡大型の社会システムや生活様式を、飽和・安定型のそれへと移行させる一大転換期になるだろう。
260年前に、同じような時代があった。江戸時代の人口は1710年頃から飽和しはじめ、その後1730年までの約20年間は成長から停滞への転換期となった。この時代を貫くテーマは、「放漫財政から緊縮財政へ」「金銀輸出から俵物(たわらもの=実物)輸出へ」「享楽主義から倹約主義へ」「好色文学から義理文学へ」など、それまでの水ぶくれ社会を、いかにしてスリムな社会に切り換えていくかとなった。
とすれば、1990年からの20年間も同じように「調整の時代」となり、成長・拡大の絶頂期であった「昭和・元禄」にならって、「平成・享保」とでもよばれることになろう。(日本経済新聞・1989年9月18日夕刊) |
この文章は「平成享保」という言葉を、初めて使ったものです。今から見ると、前提にした厚生省の人口予測はやや甘いものですが、日本の総人口が増加から減少に変わっていくという展望は、現在でも変わっていないばかりか、むしろ早まっています。こうした人口動向からみると、これからの社会は、従来の成長・拡大型から飽和・安定型へ移行していく、と判断したのです。
掲載された直後から「平成享保にはならない」とか「平成享保にしてはいけない」などの批判もありましたが、その後の社会の動きは、ほぼこの文章通りになっています。とりわけ「放漫財政から緊縮財政へ」とか「享楽主義から倹約主義へ」などの言葉は、この十数年の社会・経済を確かに予言していたと自負しています。
なぜこれほど的中したのでしょうか。この予測は、私の提唱する人口波動説を初めて未来予測に応用したものですが、ここまで当たったことは、その正当性をそれなりに実証しているといえるのではないでしょうか。
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現代重なる低迷期 |
関ヶ原の合戦(1600年)からの100年間で、日本の人口は倍に、生産力は3倍にと膨れ、幕府も大名も庶民も繁栄と享楽に酔った。ピークが元禄時代(1688〜1704年)だった。1960年代の高度経済成長を経て日本が米国に次ぐ経済大国へとのし上がった昭和時代は元禄時代と似ている。自民党の有力政治家が命名した「昭和元禄」はやがて流行語となった。
しかし、元号が変わるや「平成享保」という言葉が登場したことをご存知だろうか。89年9月に古田隆彦・現代社会研究所長は江戸時代と比較し、成長から停滞への転換点となった享保時代に例えて「平成享保」と名付けた。その予言を裏付けるように同年12月29日に平均株価が史上最高値を付け、その後はバブル経済が崩壊して日本は長い低迷の時代へと移っていく。
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(2010年11月17日 読売新聞・東海版「名古屋開府400年」) |
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「平成享保」から「平成明天」へ |
「平成享保」とは、平成元年(1989年)の秋、筆者が某紙に寄稿したコラムの題名。福田赳夫元総理の名言「昭和元禄」を踏襲して、「平成」は江戸時代の「享保」に近づく、という趣旨だ。
その後二〇余年を経て、「成長・拡大から飽和・安定へ」や「放漫財政から緊縮財政へ」の移行、あるいは「享楽主義から倹約主義へ」という展望はほぼ的中した。
予測の根拠は人口動向。享保期には集約農業技術、石高経済、半鎖国体制による江戸型農業文明が、また平成期には科学技術、市場経済、国際開放体制による近代工業文明が、それぞれ限界に近づいたため人口がピークに達し、社会・経済も成長から成熟へ移行した。
人口減少が始まった現在は、江戸時代でいえば、延享・寛延・宝暦期。病弱で言語不明瞭な九代将軍・家重に代わり、側用人・大岡忠光が幕政を動かしたが、人口減少に伴う「米価安」で財政は急速に悪化。幕府は「定免制」を強行して増収を狙ったものの、百姓一揆の続発でかえって税収が減り、ついには赤字に陥った。
そこで登場したのが田沼意次。明和・安永・天明期に十代将軍・家治の側用人兼老中として、「石高経済」を再建しつつも、折から勃興した商品経済を積極的に活用して増収を図る。当時としては常識破り≠フ発想だが、十三年間で収支を改善し、天明の大飢饉までの約十年間、黒字を維持した。
現代の政府に当てはめれば、「市場経済」を維持しつつも、それを超える常識破り≠フ発想だろう。互酬・互恵制度の再生や福祉政策の再構築など、大胆な改革で歳出を抑制し、人口減少社会に見合った財政構造を創る。
もしこれに成功すれば、平成二十〜三十年代の日本は「平成・明和〜天明」、略して「平成明天」とよばれることになろう。
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(2011年10月15日 生産性新聞「一言」欄・古田隆彦)
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「平成享保」の次の時代を予測する |
「平成」という時代が終わろうとしている。明後年に新天皇が即位されると、新たな元号が始まる。「平成」に続く「新元」の時代に、社会・経済やファッションは、どのように変わっていくのだろうか。・・・以下は・最近の主張 2017
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(繊研新聞・Study Room:2017年6月6日)
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電子出版『平成享保・その先を読む・・・人減定着日本展望 』を上梓しました! 2016年12月
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