人口波動研究室
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現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY  
この研究室では、古田隆彦が独自に提唱する「人口波動説」「人口波動法」を研究しています。
成果の一部として、書籍、新聞、雑誌などに寄稿した論文を再掲します。


人口減少社会の先駆的研究・・・30余年!


人口爆発の世紀が始まる

(『調査農林統計』農林統計協会,2000,2月号)

古 田 隆 彦

迫り来る人口爆発
 国連人口基金によると、去る一〇月一二日、世界の人口は六〇億人を突破した。最近になって増加率はやや低下しているものの、世界人口は今後もなお増え続け、二〇五〇年に九〇億人、二一〇〇年に一〇四億人に達するという(国連・九八年推計)。となると、二一世紀の世界では、次のような問題の発生する可能性が高まってくる。
 第一は開発途上国だけで人口の急増が続く。先進国は現在の約一一億人で停滞するが、途上国は二〇〇一〜二〇五〇年で約三三億人、二〇五〇〜二一〇〇年で一〇億人も増加する。
 第二は食料・資源・エネルギーなどの需要拡大。現在、先進国の国民一人は、途上国の一人に対して、穀物消費量では二・七倍(FAOデータ・一九八八〜九一年より推定)、鉄鋼、銅、アルミニウムなどの原材料では八〜一〇倍、エネルギー消費量で一〇〜三〇倍も消費している(メドウズ/ランダース『限界を超えて』)。
 このため、人口増加は人数の急増に留まらず、食料・資源・エネルギーの大幅な需要増加を招く。途上国の人々が先進国並みの生活水準を望むとすれば、どう少なく見積もっても数倍の供給が必要だ。最大の場合には、二〇五〇年に人口が約一・五倍になるだけでなく、食料は約四倍、資源・エネルギーは一五〜四五倍が必要になる。
 第三は環境問題の拡大。現在、先進国の一人が発生させているCO2 は、途上国の一人の約一〇倍に当たる。もし何の対策も打たないまま、途上国の人々が先進国なみの生活を求めるとすれば、二〇五〇年には約六倍ものCO2 が排出され、温室効果による地球の温暖化は避けられない。
 以上の問題点が如実に示しているのは、地球の限界が間近に差し迫っているという現実だ。近代工業文明が一時、自然を凌駕したように思えたのは、あくまで地球の許容量の範囲内の話であって、それを超え始めれば、人類はやはり自然の制約に阻まれる。これこそが人口爆発、食料・資源不足、環境悪化というトリレンマの実態なのである。

地球の限界は八〇億人
 一体、地球はどこまで耐えられるのだろうか。勿論、さまざまな見方があり、単純に推計することはできない。人口容量そのものが、人間の生活水準の動向に左右されているうえ、地球環境を利用する文明の中身によってもまた大きく変化するからだ。
 だが、現在の工業文明を前提に、このまま人口や生活水準が伸び続ければ、どこかでブレーキがかかるのは必然だから、一応の限界を推計することは可能だろう。そうした試みの一つとして、注目されるのがニューハンプシャー大学のD・メドウズ博士を代表とする研究グループの研究だ。ローマクラブの『成長の限界』グループを引き継いだ彼らは、一九九二年にシステム・ダイナミックス・モデル「ワールド3」を駆使して、一九〇〇〜二一〇〇年の世界の状況を予測している(『限界を超えて』)。
 この研究では、一三通りのシミュレーションが行われたが、それによると、何の対策も打たないまま、現在の延長線上を世界が進んだ場合、二一世紀の初頭から環境汚染が増加し、二〇一五年以降食料総生産が減少し始め、二〇二〇年ころから人口も急減していく。これに対し、今後、急速にさまざまな対応が進めば、二〇三〇年頃に八〇億人程度で、なんとか持続可能な安定状態へ持ち込める、という。その条件とは次のようなものだ。
 @九〇年代後半より、一家族当たり子ども二人になるように、世界的に産児制限を行う。
 A目標となる一人当たり工業生産高を三五〇〇ドルとする。この水準は九〇年の韓国と同等であり、同年のブラジルの二倍にあたる。
 B関連技術を積極的に取り入れる。例えば、資源利用の効率を高め、単位工業生産当たりの汚染排出量を削減し、土地の浸食を抑制して、一人当たり食料が望ましい水準に達するまで土地の収穫率を向上させるような、さまざまな技術を積極的に普及させる。
 以上の条件下なら、世界の人口は八〇億人弱で安定化し、その後ほぼ一世紀の間、物質的に望ましい生活水準を続けることができる。一人当たりのサービスは九〇年水準を二一〇%上回り、全ての人々に十分な食料が供給され、二〇一〇年以降の平均期待寿命は八〇歳強で維持される。環境汚染は不可逆的な損害を出す前にピークを迎えて下降する。再生不能資源の枯渇はゆっくりと進行し、二一〇〇年にはまだ元の資源量の半分が残る。こうして、世界は「均衡状態」に達するというのだ。
 この予測が正しいとすると、近代工業文明による地球の人口容量は約八〇億人とみるべきだろう。先の国連推計で、世界人口がこのラインを超え始めるのは二〇二〇年代だから、そのあたりになると、人口爆発の発生する可能性が急速に高まってくるはずだ。

最悪のシナリオ
 その時、世界はどうなるのか。最悪のシナリオは、およそ次のようなものだ。
 @大気・水質・土壌汚染や気候不順などの自然条件の悪化に触発されて、農業生産で一時的な不作が発生すると、国際的に広がった情報・流通ネットワークに乗って、食料パニックが世界中に広がる。
 A食料パニックは、生活財全体の供給不安を募らせるから、実際の需給バランスを超えて、資源やエネルギーにまで波及する。このため、先進国、途上国を問わず、各地で物資の奪い合いや環境汚染のなすり合いなど、新たなパニックが発生する。
 Bいずれの国々も、自国民や自国の社会・経済を守るため、それぞれの国境を強化して、食料・資源・エネルギーの確保に向かい始める。もっとも、これだけ人口の増えた時代に、一国だけの閉鎖体制では対応しきれないから、農業国と工業国の連携や、資源保有国と製品生産国のタイアップなど、必然的にブロック化が進み始める。
 経済のブロック化は、すでにEU(欧州連合)やNAFTA(北アメリカ自由貿易協定)で始まっているが、今後はさらにMERCOSUR(南米南部共同市場)が発展したSAFTA(南アメリカ自由貿易協定)、その延長上で南北アメリカが一体化したFTAA(米州自由貿易地域)、あるいはアジアのAFTA(アジア自由貿易協定)など、世界各地に出現し、次第に広がっていく。
 Cだが、以上の対応ができない途上国の一部では、国内的なパニックの拡大につれて、他国への武力侵入や食料・資源の略奪などへ突き進むケースも起こりうる。
 これらの国々の標的となるのは、直接的には周辺の食料・資源の余裕国だが、より広域的には世界中に広がった市場経済システムや欧米主導の国際政治システムとなる。混乱要因の一つが、間違いなく工業文明の限界そのものにあるからだ。その結果、国際社会では近代工業文明を支える基本的なパラダイム、つまり科学技術や市場経済システムにも動揺が起こり、国際関係はさらに混乱の様相を呈する。
 Dこうした混乱は、先進国や軍事大国の圧力で一旦は抑えられるものの、近代工業文明の本質を問いなおそうとする過激な運動として潜伏化し、その後もなお持続されていく。
 以上のように、適切な対応がなければ、二〇二〇年代以降の国際社会は、混乱と動揺の時代を迎えることになろう。

加工貿易国家を超えて
 激変する国際情勢の中で、来世紀の日本はどのように対応していけばいいのだろうか。まず人口の動きを見てみよう。
 現代日本の人口は、江戸後期の三二五〇万人から始まって、明治維新の前後から急増し、太平洋戦争の前後に約七二〇〇万人で一時的に停滞したものの、戦後は再び急増路線を取り戻し、九九年現在一億二六〇〇万人に達している。しかし、九〇年代に入ってからは、急速に伸び率を落とし、八〇年代の半分程度になっている。
 国立社会保障・人口問題研究所の予測(九七年一月推計)によると、今後は二〇〇七年の一億二八〇〇万人をピークに減少に転じ、二〇五〇年の一億人を経て、二一〇〇年には七〇〇〇万人を切る。より厳しく推計した低位値では、二〇〇四年の一億二七〇〇万人がピークで、二一〇〇年には五一〇〇万人にまで落ちる、という。
 そうなると、出生数の上昇や外国人の移民促進など、人口回復策が相次いで実施される可能性が高まる。だが、ヨーロッパ先進国の先例を見る限り、二つの政策の実効性はさほど高いものではない。もし回復できたとしても、低位値をベースにして中位値に近づく程度だろう。とすれば、二一世紀の日本は間違いなく人口減少社会になっていく。
 それゆえ、人口減少は来世紀の日本を決める、最も基本的な方向となる。考えてみれば、一九〜二〇世紀の日本で人口が増加し続けたのは、近代工業文明の導入によって、国内での人口容量が飛躍的に高まったからであった。
 戦前の日本は近代的な農業技術や土木技術の導入で国内の農業生産を向上させ、人口容量を約七二〇〇万人にまで高めたが、食料自給はそのあたりが限界であったから、国外への進出に向かわざるをえなかった。それが太平洋戦争の遠因であった。
しかし、戦後の日本は国内自給という原則を棄てて、加工貿易国家をめざし、工業製品輸出−食料輸入という体制を作り上げた。それは、生産性の上昇が緩和し始めた農地を工業用地へと切り替えることで、国土全体の食料生産性をより高めることを意味していた。
 すなわち、戦後の国際環境においては、一部の工業先進国だけが高価な工業製品を生産し続け、大半の開発途上国は農業生産を担当し続ける、という跛行的な分業構造が進んだ。こうした環境下では、工業製品の価格は農産品より必然的に高くなるから、高い工業製品を売って、安い農産品を買うのが懸命な方法であった。わが国はこの方策を積極的に実践することで、本来なら七二〇〇万人しかない人口容量を、一億二七〇〇万人にまで伸ばしてきたのである。
 だが、今やそれも限界に差しかかっている。世界の産業構造では、多くの開発途上国が工業生産を拡大した結果、工業製品が供給過剰になりつつある。代わって、農産品は工業化に伴う労働力の減少や農業用地の縮小などで、次第に供給不足へ向かっており、それに伴って価格も上昇し始めている。
 過去半世紀の間、世界の穀物価格は、技術進歩による生産性の上昇につれて、ほぼ一定して下落してきた。一九五〇年から九三年の間に、小麦、トウモロコシ、コメの世界価格は実質で、それぞれ六七%、八三%、八八%下落した。期間によるり幾分の変動はあったものの、小麦価格は年二%以上のペースで、トウモロコシは年三%以上、コメは年四%近いペースで下落した(L・R・ブラウン編著『地球白書・一九九八〜九九』)
 しかし、九三年以降、この傾向は反転している。小麦の世界価格は九三年に底を打ち、九六年には三九%も上昇した。コメ価格は三〇%、トウモロコシ価格は五八%も上昇している(前掲書)。この傾向が今後も続くとは断言できないものの、従来の傾向が変わりつつあることはまずまちがいない。
 とすれば、二〇世紀が穀物に代表される農産物価格が低下する時代だったのに対し、二一世紀は逆に上昇する時代になる。二一世紀に入るとまもなく、工業製品の価格はさらに下落し始め、逆に農産品の価格は上昇する可能性が高まってくる。そうなると、国土の総合的な生産性においても、工場用地よりも農業用地の方が上昇し始める。
 人口爆発へ向かう世界と人口減少へ向かう日本−−両者を均等に睨む時、わが国の進むべき道が見えてくる。それは多分、従来の加工貿易国家を大きく超えて、食料・資源の自給体制の拡大、相互援助の可能な諸国との関係緊密化などを考慮した、よりバランスの高い構造をめざすことだろう。

(ふるたたかひこ・現代社会研究所所長・青森大学社会学部教授)

人口史観で読む二十一世紀の日本
(『論争』東洋経済新報社・1997,9月号)
現代社会研究所所長・青森大学教授 古田隆彦
【人口減少時代が始まる】
二十一世紀の日本は、十九〜二十世紀とは全く異なる人口減少社会になる。
国立社会保障・人口問題研究所が一月に発表した将来人口推計(中位値)によると、日本の人口は二〇〇七年の一億二千八百万人をピークに減少に転じ、二〇五〇年は一億人、二一〇〇年には七千万人を切る。より厳しく推計した低位値では、二〇〇四年の一億二千七百万人がピークで、二一〇〇年には五千百万人にまで落ちる。同研究所の過去の予測では、ほとんど低位値が当たっているから、今後の実勢もそうなる可能性が強い(図)
もっとも、実際に減少が始まると、出産・育児・教育・家族の支援策や外国人の受け入れ策が、大胆に推進される可能性もある。だが、それらが行われたとしても、年間増加量はせいぜい三十万人程度で、平均減少量約八十万人との差、五十万人は減少する。その結果、来世紀末には八千万人程度になる。
結局、いかなる手を打っても、来世紀の日本は人口減少社会だ。人口が減少すれば、商品やサービスの需要は減少し、労働力の減少で供給も縮小するから、わが国は、従来の「成長・拡大型社会」から必然的に「飽和・凝縮型社会」へ移行していく。そうなると、政治・経済から社会・文化まで、人口増加を前提にした現在の諸システムは、ほとんど通用しなくなる。
【人口はなぜ減るのか】
十九世紀の初頭からほぼ一貫して増加してきた人口が、なぜ減少に転じるのか。人口学者の多くは、晩婚化による出生数の減少や、その背景にある女性の高学歴化や社会進出をあげている。確かにそれも一因だが、それだけでは人口は減らない。人口が減少するのは、死亡数が出生数を追い越すからである。
では、なぜ出生数が減り、死亡数が増えるのか。アメリカの生物人口学者、R・パールとL・リードは、一九二〇年に次のような実験結果を報告している。まず温度や湿度を一定に保った箱の中心に、二五〇CCの牛乳ビンをおき、その中へバナナの磨り潰しを寒天で固めて入れ、一定の時間ごとに補給を続ける。ビンの中には羽化したての雌雄一対のキイロショウジョウハエを入れ、一定時間毎に繁殖数を計測する。すると、その数は漸増から急増に移り、しばらくは増え続けるが、一カ月もすると増加速度を緩め、ついには増減なしの状態に至る。こうした実験を何度も繰り返し、二人は増加の軌跡がS字型のロジスティック曲線になることを確認した(図)
さらにこの曲線は、一時の安定の後、しばしば下降していく。ハエの数が少なく環境に余裕のある時には、産卵数が増え死亡数も低いが、数が増えて生息密度が高まると、食糧不足や環境悪化にストレスが加わって産卵数が落ち、死亡数が上がる。この傾向が過度に強まると、全体の数は減少に陥るという。
以上は現代の生物学が「密度効果」または「群集効果」とよぶ現象だが、人間の場合も構造的には同様であり、1)食糧不足、2)環境悪化、3)高密度化による情報過敏やストレス上昇が、少産・多死化を引き起こす。現代日本が人口減少に向かう背景にも、基本的には同じような理由が潜んでいる。
もっとも、人間の場合は他の動物と違って、自ら環境を改善する能力を持っているから、いつまでも停滞していない。環境制約が長びくうち、人口容量を拡大する新しい文明を作り上げる。その見通しが立てば、前の曲線の下で停滞していた人口は、再び急増から飽和へのプロセスを辿り始める。
それゆえ、人間の人口は一つの曲線から別の曲線へと、次々に階を重ねる「人口波動」を辿ることになる。
【五番目の人口減少期】
以上の視点に立って日本列島の人口推移を振り返ってみると、に示したように、五つの波動が確認できる。1)約四万年前からの三万人の波、2)紀元前一万年前からの三十万人の波、3)紀元前三〇〇年からの七百万人の波、4)西暦一四〇〇年からの三千万人の波、5)一八三〇年からの一億二千七百万人の波だ。
五つの波動は、人間が日本列島をいかなる文明によって利用してきたか、を示している。つまり、日本列島の人口容量(自然環境×文明)は、旧石器文明、新石器文明、粗放農業文明、集約農業文明、工業文明によって次第に拡大されてきたということだ(人口史観)。そこで、各波動を石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波と名づけよう。
以上の波動のうち、私たちが乗っているのは五番目の工業現波だが、この波は今や停滞過程に入ろうとしている。工業文明による人口容量の限界が近づいているからだ。これこそ、昨今あちこちで叫ばれている「閉塞化」の真の背景なのである。
【二十一世紀の読み方──二つの先例】
では、人口減少社会とはどんな社会になるのか。参考にすべき先例が二つある。
一つは、享保から化政期に至る、わが国の江戸中期。当時の人口は室町期以来の急速な増加が一七三〇年ころに終了し、その後は約百年間停滞・減少が続いた。農業生産の伸びもほぼ飽和化したうえ、経済的にも元禄バブルの後遺症でインフレと財政悪化が同時進行し、社会・経済構造も停滞に陥ったからだ。
にもかからず、この時代には、歌舞伎、浮世絵などの大衆文化、寺子屋、貸し本屋などの情報文化、蕎麦、うどんなどの生活文化まで、数多くの日本型文化が育まれた。つまり、人口が停滞し社会が安定していたが故に、文化や生活が爛熟し、農業文明に見合う成熟化社会が実現された時代だった。
もう一つは、二〇年も前から人口停滞を経験している欧州の先進諸国。例えばスウェーデン、ノルウェー、ベルギーなどの北欧諸国では一九七〇年代から、またイギリスや旧西ドイツなどでは八〇年代から、人口が停滞している。いずれも西欧文明の主導国であり、産業構造や社会保障の進んだ国々だ。とすれば、人口停滞は先進国家に共通する現象として、社会の成熟度を示しているともいえる。
これらの国々でも、人口停滞に伴って少子化と高齢化が進行し、産業の国際競争力の低下、経済の破綻、財政の悪化などに陥った。だが、生活環境や社会福祉の面では、途上国が比較できないほど、成熟した社会が出現した。とりわけ、高齢者対策や出産・育児・教育政策では、政府と企業が協力し合って、日米の数倍もの援助政策が実現している。さらに生活面でも、やみくもに働き、がむしゃらに消費する生活を卒業し、物質的な制約が強まる中でも、ゆとりと生き甲斐を見出す生活様式が作り出されている。
二つの先例が示唆するのは、人口減少社会では、物量的には制約の多くなるものの、それが故にむしろ生活文化や情報文化が成熟する可能性が強いということだ。
【人口減少社会を展望する】
とすれば、来世紀の日本は、従来とは大きく変化する。主な方向を展望してみよう。
1)制約拡大化……人口減少の主要因が人口容量の飽和化である以上、さまざまな制約が増加する。国内的には水や電力などの不足、廃棄物増加、大気・水質汚染などが拡大する。国際的にも人口爆発の進行で、食糧・資源・エネルギーなどの需給や環境負荷が次第に厳しくなり、二〇二〇年代にはパニックに陥る危険性が高まる。
これを避けるため、先進諸国は人口停滞を続けるとともに、生活水準もできるだけ抑えねばならない。また発展途上国は、人口増加を早急に抑えるとともに、生活水準の向上も遅延させることが必要だ。となると、日本を含む先進国は、途上国の生活水準を上げないために、国際貿易もできるだけ抑制しなければならない。つまり、国内消費を抑え、輸出入を縮小し、最終的にはGNP(国民総生産)の伸びも抑えることが必要になる。
2)GDP(国内総生産)一定化……そこで、国内政策でも、GDP拡大主義から維持主義への移行が必須となる。従来は人口増加に対応するために、食糧・衣料・住宅などの原資、つまりGDPを増やす必要があった。が、人口が減り始めると、GDPが全く伸びなくとも維持できれば、一人当たりGDPは増加する。このため、GDPとは拡大すべきものから、維持すべきものに変わっていく。
もっとも、人口減少で労働力も減少するから、GDPも減少する。そこで、少ない労働力で従来の生産水準を維持できるように、一人当たりの労働生産性や付加価値生産性を上げることが必要になる。具体的には、モノやサービスの価値を、物的・量的拡大から質的・情報的凝縮へ変えていかねばならない。
3)第五次情報化……物的拡大の限界や内需の減少が進めば、生産の主流は必然的に情報や象徴など意味的生産へ移行する。過去の人口波動でも、それぞれの下降期には、石器前波の細石刃文化、石器後波の呪術的・装飾的文化、農業前波の国風文化、農業後波の江戸出版文化など、いずれも情報化が強まった。つまり、情報化社会とは、D・ベルやA・トフラーのいうような、農業社会、工業社会に続くものではなく、さまざまな物質文明の成熟段階で何度も出現するものなのだ。
その意味で、現在進行中のマルチメディア化も、工業文明の生み出したツールをメディアに置き換える五回めの情報化として、二十一世紀にはいっそう強まっていく。
4)七十五歳高齢制……人口減少に伴って、高齢化も急進する。六十五歳以上の比率は、現在の一五・六%から二〇一〇年の二二・三%、二〇二〇年の二七・五%へと上昇し、生活支援、介護、医療ニーズの増加、社会保障費の上昇などの諸問題を拡大させる。
これに対応するには、高齢者の定義を七十五歳以上に引き上げることが必要だ。そうすれば、現在の高齢者比率(六十五歳以上は一四%)は二〇二五年(七十五歳以上は一五%)でもほとんど変わらない。一度にあげるのが大変なら、生産年齢人口を七割に維持するように、徐々に引き上げていけばよい。
但し、定義を繰り上げる分、七十代前半までの働き場所は確保しなければならない。今後の高齢者は従来と比べて、肉体的、精神的にもはるかに高い労働能力を維持している。そのうえ、来世紀になると人口停滞で慢性的な人手不足となるから、六十五歳以上の老齢者も引く手あまたとなる。
結局、高齢化への対応策とは、若年労働力尊重、終身雇用、六十歳定年制、六十五歳以上の高齢者などの既存制度を前提に、年金改訂や増税を重ねるのではなく、中高年活用、高齢者年齢の引き上げなど、人口減少に見合った方向へ転換していくことなのである。
5)婚外子増加……人口減少に伴って少子化対策が活発化すると、欧州の先例が示すように、婚外子が急増する。欧州連合(EU)の人口動態調査によると、九三年に欧州十七カ国で生まれた子供の五人に一人以上は婚外子だった。最高はアイスランドの五七%で、スウェーデン五〇%、デンマーク四六%と北欧諸国ではほぼ二人に一人、フランスやイギリスでも三人に一人の割合だった。
欧州諸国では七〇〜八〇年代から人口減少に入ったため、各国政府は出産費用の無料化、育児休暇・手当ての充実化、教育費用の無料化・援助化など、出生数増加のための諸政策を次々と採用してきた。その結果、確かに出生率は回復したが、他方では未婚女性の子供を産む比率も上昇してしまったのだ。
となると、来世紀の日本でも、三人に一人くらいは婚外子が生まれ、親子や家族の概念を大きく変えていくことになろう。
6)脱アメリカの生活様式……生活様式でも、大量生産−消費−廃棄のアメリカン・ウエイ・オブ・ライフ(AWL)を脱し、少量生産−消費−廃棄型への転換が進む。戦後、日本の生活様式をリードしてきたAWLは、今や大量消費による資源・環境問題の拡大や、軽薄さ、粗暴さなどの欠点を露呈しつつある。加えて八〇年代末に一人当たりGDPがアメリカに追いつき、人口構造も同国を超えてしまった。今や日本の平均年齢は三九歳を超え、あと数年で人口減少に移ろうとしているのに、アメリカは三五歳に達したばかりで、二〇五〇年ころまで人口増加を続けていく。もはやAWLはモデルにはならない。
それゆえ、今後の日本が接近していくのは、さきに述べた江戸中期や欧州先進国の生活様式だろう。例えば、物質的膨張主義を全面的に見直した環境・資源対応の重視、美意識・精神性・象徴的価値などをより重視した非物質的充実主義の確立、伝統の再評価、型や作法の再構築など、精神や倫理を尊重する生活様式を再生する方向である。
【目標の総転換】
以上、幾つかの側面から人口減少社会の方向を見てきたが、こうした社会を実現するには、何よりもまず国際的な安定が必要だ。
ところが、さきに述べたように、二〇二〇年代には、人口爆発に伴う食糧・資源・エネルギー危機や地球環境の悪化が懸念される。これに対応するには、日本列島でどこまで食糧自給が可能か、農地確保とハイテク農業の両面から検討を進めねばならない。さらには緊急時に互いの弱点を補い合えるような、適切な国々との間で経済・社会相互援助条約を結び、経済や社会のブロック化を進める外交戦略を採用することも必要になろう。
以上のように、世界人口の爆発と日本人口の急減を前提にすれば、来世紀の日本は、過大な経済成長や過剰な国際貿易を抑制し、安全保障的なブロック化を推進する方向へ目標を転換することが必要になる。それはつまり、日本の国家目標を従来の「拡大型」から「凝縮型」へと大きく転換することなのである。

人口減少の背景を考える
(『世界と人口』家族計画協会,1997,3月号)
現代社会研究所所長・青森大学教授 古田隆彦
【人口減少社会が来る】
国立社会保障・人口問題研究所が一月に発表した将来人口推計(中位値)によると、わが国の人口は二〇〇七年に一億二千七百八十万人でピークに達するが、その後は減少に転じ、二〇五〇年は一億人、二一〇〇年には六千七百万人にまで落ちるという。いよいよ人口減少社会の到来である。
直接的な要因は、死亡数が出生数を追い越すためだが、通常それが起こるのは、大災害、伝染病、戦乱などで大量に死亡者が発生した場合や、出生数の漸減に死亡数の漸増が重なった場合である。前者がパニック的なものだとすれば、後者は社会構造的なものだ。
二つのケースのうち、現在の日本が直面しているのは後者である。そこで、後者の背景をより詳しく考えてみよう。
【生物界の人口減少】
人口減少を「個体数減少」という生物学の用語に広げてみると、そうした現象は生物界に広く発見できる。さまざまな生物は、生存環境の許容量までは個体数を増やしていくが、そこを過ぎると増減なしの定常状態に入ったり、減少傾向に陥るケースが多い(1)。
この現象を実験室で確かめたのが、ジョンズホプキンス大の生物学教授R・パールとL・リードだ1)。一九一〇年代に彼らの行った実験では、温度や湿度など環境条件を一定に保った箱の中心に、半パイント(約二五〇CC)の牛乳ビンをおき、その中へバナナの磨り潰しを寒天で固めて入れ、一定の時間ごとに補給していく。ビンの中に羽化したての雌雄一対のキイロショウジョウハエを入れ、一定時間毎に繁殖数を計測する。
すると、ハエの数は漸増から急増に移ってしばらくは増え続けるが、一カ月もすると次第に増加速度を緩め、ついには増減なしの状態に至る。こうした実験を何度も繰り返した結果、二人は増加の軌跡がS字型の曲線になることを確認した。
つまり、一定環境下のハエの個体数は、環境の制約が強まるにつれて、自ずから増殖を緩め、やがて増減なしの状態に到る。個体数が少なく環境に余裕のある時には、産卵数が増え死亡率も低くなるが、個体数が増加して環境に余裕のなくなると、産卵数が減り、死亡率も高くなるからだ。より詳しくいえば、一定の空間内で生息密度が高まると、食糧不足や環境悪化に動物自身のストレスが加わって、一方では産卵数が落ち、他方では死亡率が上がる。現代の生物学が「密度効果」または「群集効果」と呼んでいる現象だ。
そこで、二人はこの曲線を「ロジスティック曲線」と名づけ、すべての動物の共通する基本的な人口法則としたうえで、人間もまた動物である以上、この法則に従うと考えた。もっとも、ロジスティック曲線自体は、十九世紀中葉にベルギーの数学者P・フェアフルストが発見していたものだったから、彼らの業績は、その追認と実証であった(図)
【修正ロジスティック曲線】
ところが、その後、さまざまな観察結果が集まってくると、この曲線通りにはならない場合が増えてきた。上昇から停滞まではほぼ一致するものの、上限へ達した後は定常的な直線になるのはごく稀で、むしろ下降していくケースが多い(図)
なぜそうなるのかといえば、理論上の曲線の伸び率が上限と現時点の差に反比例しているのに対し、実際の曲線は出生数と死亡数という、二変数の影響を受けているからだ。多くの場合、出生数と死亡数は過去の趨勢を引き継ぐから、両者が均衡点でぴったりとまることは稀で、前者は減少、後者は増加を続ける。このため、死亡数はしばしば出生数を追い越して、曲線を下降させていく。
生物界ではこうしたケースが多いから、この曲線を「修正ロジスティック曲線」と名づけよう。結局、個体数がこの曲線に沿って下降していくのは、食糧不足、環境悪化、ストレス上昇などで、環境容量の限界をすでに超えたためなのである。
【人間の場合】
以上の構造は人間にも当てはまる。但し、人間の場合には、二つの点で一般の生物と異なっている。一つは環境容量を自ら拡大できること。人間は文化や文明という、自然環境を改善する能力によって、環境容量(人口容量)を変えることができる。このため、人間の人口は一つの修正ロジスティック曲線をいつまでも辿ることはない。環境制約が続いているうちに、人口容量を拡大できる新文明を作り出し、それによって拡大できる見通しがつけば、人口は再び増加し始める。
もう一つは人口容量が飽和した時、生物的(生理的)対応に加えて、人為的(文化的)対応ができること。人間もまた生物であるから、食糧不足、環境悪化、高ストレスに晒されていると、生理的な対応として精神的・肉体的に体力が低下し、一方では生殖能力低下、他方では病気の増加、寿命低下、胎児や乳幼児の生存能力の低下などが発生する。
だが、もともと本能が退化している人間は、生理的対応に頼る以上に文化的対応に頼る場合が多い。具体的にいうと、出生抑制対応では、妊娠抑制(避妊)、出産抑制(堕胎)などの「直接的抑制」、生活圧迫、結婚抑制、家族縮小、家族・子どもの価値の低下、都市化、社会的頽廃化など「間接的抑制」、強制的出産抑制(例・一人っ子政策)、出産不介入(例・「産めよ増やせよ」政策の放棄)などの「政策的抑制」といったものだ。
また死亡増加対応でも、死亡増減への不介入といった「直接的抑制」、飽食・過食による病気の増加、成人病の増加、性的伝染病の増加などの「間接的抑制」などのほか、現代日本では少ないものの、強制労働や強制移動などの「政策的抑制」も考えられる。
以上のように、人間は人口容量の限界に対して二重の対応能力を持っているが、どちらが強く働くかは、文化の安定度に依存している。イギリスの経済学徒R・ウィルキンソンによると、文化の安定時には「文化的抑制装置」が働くが、混乱時には「生理的抑制装置」が作動するという(2)。
【文化的対応の先例】
文化的抑制装置の実例は、日本人口史、とりわけ約百年にわたって人口が停滞した江戸中期にいくつか発見できる(3)。
直接的抑制では、授乳期間の延長や避妊のための鍼灸(妊娠抑制)、腹部圧迫、堕胎薬、ホウヅキ・フキ・ゴボウの根や茎の膣内挿入、植物の枝や茎あるいは針による掻破といった堕胎や、嬰児殺しである間引き(出産抑制)、各地に残る「姥捨て」伝説の棄老(死亡促進)などが行われていた。
間接的抑制では、結婚年齢制限、晩婚化奨励、二男以降の単身化・奴婢化(結婚抑制)や、生活水準維持志向による家族定員の規制(家族縮小)なとに加えて、江戸、大坂、京都の三大都市の拡大が、単身化、晩婚化、死亡率上昇、出生率低下などで人口抑制の効果(都市的抑制)を上げていた。
また政策的抑制では、人返し令や堕胎・間引き禁止令が度々出されたものの、その実効性の弱さが逆に人口抑制効果となった。
以上の抑制策はいずれも人為的・文化的なものだ。つまり、江戸中期には、集約農業による人口容量が限界に達したため、さまざまな文化的人口抑制装置が作動したのである。
【現代日本の対応】
以上の視点に立つと、現代日本の人口減少の背景にも、文化的要因が働いている可能性が強い。勿論、直接的な人口減少要因としては、晩婚・晩産化や夫婦間での少子化などが出生数を低下させ、平均寿命の限界化が死亡数を増加させている。
ところが、これらの背後には避妊技術の向上、女性の社会進出、個人主義的価値観の拡大、出産促進政策の放棄などが出生数減少を招き、飽食による体質の劣化、成人病の増加、医療技術の限界化などが死亡数増加に関わっている。いずれも文化的な要因である。
結局、今回の人口減少もまた、現代日本の人口容量が限界化したため、破局に陥る前に、さまざまな文化的対応を始めているということではないか。確かに現代日本の人口容量は、西欧型科学技術、日本型資本主義、自由貿易主義などによって一億二千七百万人にまで達している。だが、そのあたりが限界で、それ以上の成長・拡大はもはや困難になり始めている。
それゆえ、多くの国民は、高い水準へ達した生活を維持するため、家庭や子どもと自分の生活を天秤にかけ、結局は自分の人生を優先し始めている。つまり、個人主義や自己実現志向を強めた結果、それに反する結婚や出産を躊躇するようになっているのだ。
迫り来る人口減少の真の背景は、晩婚化・非婚化の増加や平均寿命の限界化といった直接的要因を超えて、その奥に潜む個人主義や自己実現志向の拡大、さらにはそうした意識へ国民を追い込む人口容量の飽和化ということになろう。
(注)
(1)Hutchimson,G.E.,An Introduction to Population Ecology,Yale University Press, 1980及びPearl R.,The Biology of Population Growth,A.A.Knopf,1925
(2)ウィルキンソン・R・斉藤修他訳『経済発展の生態学─貧困と進歩』筑摩書房・一九七五
(3)古田隆彦『人口波動で未来を読む』日本経済新聞社・一九九六 

人口波動で未来を探る
(『学士会報』1997年1月号)
現代社会研究所所長・青森大学教授・古田隆彦
〔人口には波動がある〕
世界の人口推移に幾つかの“波動”があることは、一九七〇年代から欧米の学者によって指摘されてきた。例えば七八年にC・マッケブディとR・ジョーンズは、紀元前一万年前からの「原始サイクル」、西暦五〇〇年ころからの「中世サイクル」、一四〇〇年ころからの「現代サイクル」の三つの波動を指摘している(1)。また七九年にはJ・ビラバンが、紀元前四万七〇〇〇年〜前四万年、前八〇〇〇年〜前五〇〇〇年、前四〇〇年〜紀元前後、西暦八〇〇年〜一二〇〇年、一七〇〇年から現代まで、の五つの時期に人口爆発があったと述べている(2)。
二つの説では、発生の時期が幾分異なっているが、何回かの波があったという点では一致している。とすれば、その原因は一体何であろう。多分、それは地球という自然環境に対して、人類がいかなる文明で対応してきたか、という“人口容量”の歴史ではないか。これまでの人口学では、この関係を次のようにとらえてきた。
人口学の開祖R・マルサスは、一七九八年に「人口は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しないから、その帰結として窮乏と悪徳が訪れる」という有名な理論を発表した(3)。が、一八二六年に至って、人口と食料の不均衡が発生した時、人口集団にはそれを是正しようとする力が働くという理論に修正した(4)。人口に対してはその増加を抑えようとする「積極的妨げ(主として窮乏と罪悪)」や「予防的妨げ(結婚延期による出生の抑制)」が、また生活資料に対してはその水準を高めようとする「人為的努力(耕地拡大や収穫拡大など)」が行われ、その結果、新たにもたらされる均衡状態は、人口、生活資料とも以前より高い水準で実現されるというものだ。この説は、人口増加−不均衡発生−対応行動−人口抑制緩和−人口増加というサイクルの、最初の指摘であった。
続いて一八四五年、ベルギーの数学者P・フェアフルストが、環境の制約効果は突然現れるのではなく、むしろじわじわと効いてくると考え、欧州各国の人口推移を分析して、S字型のロジスティック曲線を発見した。
さらに七五年後の一九二〇年、アメリカの生物学者R・パールとL・リードが、この曲線を生物実験によって確かめた。瓶の中のキイロショウジョウバエの個体群は、初めは急増するものの、環境の制約が強まるにつれて増殖を緩め、やがて制約の下で増減なしの状態になる、というものだ。この実験によって、人口波動はロジスティック曲線を描くことが実証された(5)。
〔多段階人口波動曲線〕
ところが、ロジスティック曲線を実際の人口推移に当てはめてみると、必ずしも一致しないことがある。そこで、一九六九年にイタリアの経済史学者C・チポラは「人間の人口増加はショウジョウバエの“人口”の増殖とはちがった特別な要因をもっている。(中略)人類は少なくともある限度内で、食物や支配力のおよぶ資源を管理して増加させる方法を身につけており、そうすることによって技術的、または組織的な進歩を通じて、自分たちがたまたまその中で生存している“瓶”をひろげるものだ」と指摘した(6)。
確かに人類は他の動物と違って、自ら環境を改善する能力を持っている。それゆえ、人間の人口は一つのロジスティック曲線を最後まで辿ることはない。環境制約が長く続いているうちに、人口容量を拡大できる、新しい文明を作り上げるからである。逆にいえば「不均衡の発生こそ、人間の文化、つまり社会・経済を発展させる最大の契機」(R・ウィルキンソン)なのである(7)。
かくして新しい文明が生まれると、前のロジスティック曲線の下で停滞していた人口は、次の曲線として再び上昇し始め、急増から飽和へのプロセスを辿る。それゆえ、長期的に見れば、人間の人口は一つのロジスティック曲線から別のロジスティック曲線へと、次々に階を重ねていく。こうした複数の曲線を、とりあえず「多段階ロジスティック曲線」とよぶことにしよう。
とりあえずというのは、もう一つ問題があるからだ。ロジスティック曲線を実際に使う場合、理論上のモデルでは、の上に示したように、上限に達した後は増減の全くない定常的な直線となっていつまでも続く。ところが、生物界の実態を見ると、の下のように上限に達した後は、下降していくケースが多い。この現象はゾウリ虫や昆虫などはもとより、人間の場合にもしばしば見られる。
乖離の理由は、説明変数の数が違うためだ。理論上のロジスティック曲線では、伸び率が制約の上限と現時点の間の差に反比例するという、純理論的な数式になっているが、実際の曲線は、生物の出生数と死亡数の変化という、二つの変数の影響を受けている。この出生数と死亡数が均衡時点でぴったり留まることは稀で、多くの場合はそれまでの趨勢を引き継いで、前者は減少、後者は増加を続けるから、死亡数はしばしば出生数を追い越す。その結果、ロジスティック曲線は下降していくことになる(詳細は(8)参照)。
そこで、この曲線を「変形ロジスティック曲線」と名づけると、人口の長期的な推移は「多段階・変形ロジスティック曲線」を辿ることになる。だが、あまりにも長すぎるから、「多段階人口波動曲線」と簡略化しよう。
以上を要約すれば、人類は自ら自然環境を改善する能力、つまり文化や文明を創造する能力を持っているから、長期的な人口推移は一つの人口波動から別の人口波動へと、次々に次々に階を重ねる「多段階人口波動曲線」を辿る、という仮説がなりたつ。
〔世界と日本の人口波動〕
この仮説を実証するため、世界と日本列島の人口波動を振り返ってみよう。
世界人口については、さきにあげたJ・ビラバンの推計を基礎に、さまざまな推計結果を付加して長期的な推移を把握した(9)。約五万年にわたるこの推移を、微妙な波動が読み取れるように、特殊なグラフで描いてみると、のように五つの波動が浮かび上がる。波動が起こったのは、石器文明、農業文明、工業文明など、地球環境を利用する文明が次々に変わり、それにつれて人口容量が増加してきたからだ。そこで、これらの波動を、石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波と名づける。
次に日本列島の人口についても、さまざまな推計をつなぎ合わせて、その推移を長期的に把握し、世界と同様に特殊グラフに描いてみると、のように五つの波動が抽出できる(10)。その要因は世界波動とほぼ同じだから、各波動に同様の名称を与える。そのうえで、世界波動と比べてみると、石器前波から農業後波までは、かなりの遅れが目立つが、時間の経過とともに次第に縮まり、工業現波で追いついた後は、逆に先行し始めている。
以上の結果をみれば、「多段階人口波動曲線」仮説は、ほぼ実証できたといえよう。
〔二十一世紀を読む〕
二つの人口波動曲線を前提にすると、世界人口はなおも急増中であり、逆に日本人口はピ−クにさしかかっている。このギャップこそ、二十一世紀の日本にとって、さまざまな問題の最大の発生源となろう。
もし世界人口がこのまま増加し続ければ、食糧・資源・エネルギーなどの需給バランスや環境負荷量は、おそらく二〇二〇年ころに八〇億人程度で限界となる。これを避けるため、先進諸国に求められるのは、人口伸び率を現在の低い水準のまま持続し、かつ生活水準もこれ以上は上げないことだ。また発展途上国に求められるのは、高水準の人口伸び率を早急に抑制するとともに、生活水準はできるだけゆっくりと上げていくことである。
とすれば、日本を含む先進国は、自国の人口と生活水準を抑えるだけでなく、途上国の生活水準を上げないために、国際貿易もできるだけ抑制することが必要だ。つまり、国内消費を抑え、輸出入を縮小し、最終的にはGNP(国民総生産)の伸びも抑えることだ。
幸いというべきか、わが国の人口はすでに伸び率を落としており、二〇〇六年頃の一億二七〇〇万人をピークとして、以後は急速に減少し、二十一世紀末には六二〇〇万人まて落ちていく(厚生省人口問題研究所・九二年推計・低位値)。いうまでもなく、工業文明による人口容量が飽和化するためだ。
人口が減少すれば当然、生活財やサービスの需要が減少するし、労働力の減少で供給も縮小する。つまり、二十一世紀のわが国は、過去の四つの人口波動と同様に、下降期の様相を強め、従来の「成長・拡大型社会」とは大きく異なる「飽和・凝縮型社会」へ移行していくことになろう。
飽和・凝縮社会などというと、なんとなく暗い社会を思い浮かべがちだが、必ずしもそうではない。なぜなら、参考にすべき良好な先例が二つもあるからだ。
その一つは二〇年も前から人口停滞を経験しているヨーロッパの先進諸国。例えばスウェーデン、ノルウェー、ベルギーなどの北欧諸国では一九七〇年代から、またイギリス、旧西ドイツなどの中欧諸国では八〇年代から、それぞれ人口が停滞している。いずれも西欧文明の主導国であり、産業構造や社会保障の進んだ国々だ。とすれば、人口停滞は先進国家に共通する現象として、社会の成熟度を示しているともいえよう。
これらの国々では、確かに停滞現象が目立っている。人口停滞で少子化と高齢化が進行し、産業の国際競争力の低下、経済の破綻、財政の悪化などに陥っているからだ。だが、生活環境や社会福祉の面では、途上国が比較できないほど、成熟した社会が出現している。とりわけ、高齢者対策や出産・育児政策では、政府と企業などが協力し合って、途上国の数倍もの援助政策が実施されている。
一方、ライフスタイルの面でも、やみくもに働き、がむしゃらに消費する生活を卒業し、物質的な制約が強まる中でも、ゆとりと生き甲斐を見出す生活様式が作り出されている。こうした方向こそ、まさしく飽和・凝縮型の社会モデルを示唆するものだ。
もう一つは、享保から化政期に至る江戸中期。農業後波の下降期に当たるこの時期には、元禄バブルの後遺症でインフレと財政悪化が同時進行したため、政治・経済面では享保・寛政と厳しい社会改革が次々に実施された。だが、文化・芸術面では、歌舞伎、浮世絵、寺子屋、貸し本屋、蕎麦、うどんなど、多くの日本型文化が育まれた成熟期でもあった。つまり、江戸中期とは人口が停滞し社会が安定していたが故に、文化や芸術が爛熟し、農業後波に見合う情報化社会が実現された時代だったのである。
以上のように、西欧先進国と江戸中期という、二つの下降期モデルを眺めてみると、人口の減少する時代とは、物量的には確かに制約の多い時代になるが、それが故にむしろ生活文化や芸術文化が成熟する時代になる。
とすれば、二十一世紀のわが国も、人口減少を決して悲観することはない。むしろ、明治以降の近代西欧文明が伝統的な文化と混ざり合い、豊饒な文化や芸術を生み出す可能性が高いのではないか。否、さまざまなマイナス要因を乗り越えて、そうした社会を作り出すことこそ、今後の日本に与えられた最大の課題なのである。
(注)
(1)McEvedy C.and Jones R.,Atlas of World Population History,Penguin Books,1978
(2)Biraben,J.N.,Essai sur l'Evolution du Nombre des Hommes,Population,34:1,Jan./Feb.1979
(3)マルサス・R『初版 人口の原理』高野岩三郎他訳・岩波文庫・一九三五
(4)マルサス・R『人口の原理 第六版』南亮三郎監修・大淵寛他訳・中央大学出版部・一九八五
(5)Hutchimson,G.E.,An Introduction to Population Ecology,Yale University Press,1980
(6)チポラ・C『経済発展と世界人口』川久保公夫・堀内一徳訳・ミネルヴァ書房・一九七二
(7)ウィルキンソン・R『経済発展の生態学─貧困と進歩』斉藤修他訳・筑摩書房・一九七五
(8)古田隆彦『人口波動で未来を読む』日本経済新聞社・一九九六
(9)同上
(10)同上

 人口波動の詳細について関心のある方は、拙著をご参照下さい。
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