最近の主張 東日本大震災に思う!
TOP INDEX
現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY

大震災がファッションを変える・・・イペル・ジャポニスムへ転換・・最近の主張2011へ
繊研新聞,20011年8月16日

大震災後の東北振興ビジョン・・・最近の主張2011へ
(某新聞社インタビュー、2011年6月24日)

大震災後の消費を読む・・・ファッション研究室へ
(TREND NOTE、2011年6月号)

人口容量の限界が露呈した

 東日本大震災から3週間がたちました。この間、悲劇的な事態をどのように受けとめるべきか、マスメディアやインターネットを通じて、著名人からブロガーまで、さまざまな感想や意見が飛び交っています。

 それらに接して、幾つかの意見には深く共感を覚えました。だが、その一方でまったく見当はずれ、と指弾したくなるものも少なからずありました。「文明論を述べている時ではない」という意見など、幾分反発も覚えます。もっとも、その理由を考えてみると、最終的には発言者の立場や思考回路に帰着しますので、あえて反論するまでもない、とも思います。

 そうした意味で、ここに書くことも、的外れと批判されるかもしれません。大勢の行方不明者が未だに見つからず、大量の避難者もまた帰宅を阻まれている段階で、マクロな感想を述べるのは、あるいは不謹慎かもしれません。それを承知の上で、ブログ「平成享保」のを書き続けるために、どうしても述べておきたいことを幾つか書いておきます。

 最初に述べたいのは、現代日本の基本的な構造が、まちがいなく限界に達している、ということです。

 ブログ「平成享保」の「2章・平成前半を振り返る」で、「加工貿易文明の壁」について書きました。要約すると、「現代日本の人口容量=日本列島×加工貿易文明」であり、この容量が20世紀の終わりに限界に達したため、21世紀初頭から人口減少が始まった、ということでした。

 私が「加工貿易文明」とよんでいる文明には、科学技術、エネルギーシステム、市場経済制度、国際貿易制度、流通システム、情報システムなどが包含されています。2章で述べたのは、こうした文明による列島の利用が限界にきたため、日本の人口は増加できなくなった、ということでした。

 だが、今回の大震災が示したのは、文明だけの問題ではなく、列島そのものもまた、1億8000万人の人口を支えるのが限界に来ている、ということでした。私たちが列島の自然環境を完全に利用できると思ったとしても、日本列島は必ずしもそれに順応してくれるものではない、ということです。

 同じような悲劇は、人口容量が限界に達した時期、例えば縄文時代後期や江戸時代中期にも起こっています。江戸時代中期は、集約農業文明が限界に達した時代ですが、それが故に、火山の相次ぐ噴火や気候不順などが起こると、大飢饉が相次いで発生し、急激な人口減少を進めました。一つの文明が作りだした人口容量が限界に達していたがゆえに、列島の自然環境が微動すると、当時の人口はたちまち減少に追い込まれたのです。

 今回の大震災もまた、現代工業文明の限界を明確に示しています。科学技術でどこまでも利用できると思っていた列島が、冷ややかな拒否を示したのです。食糧の自給限界でいえば、7500~8000万人が容量です(詳細は古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)。にもかかわらず、工業と輸出で1億人を超えたのは、やはり無理があったのかもしれません。

 とすれば、大都市の電源を地方に依存する。高速で利便性の高い交通網を拡大する。高層マンションでエネルギーを高消費する。高利便性と高快適性を至上とするライフスタイルを拡大する・・・といった文明構造を今一度、問い直す時期に来ているのではないか、と思います。
(2011年4月3日・古田隆彦)

東北宿命か?

 東北地方には、さまざまな形でお世話になってきました。振り返ってみると、1980年代初頭に青森のテクノポリス開発に関わって以来、同地の大学教授を兼務し、昨年、定年退職するまで、ほぼ30年になります。

 この間、今回の被災地となった八戸、宮古、釜石、陸前高田、石巻、塩釜、仙台、亘理、いわきなどには、講演や調査、あるいは経営相談などで度々訪問しています。繰り返される画面上で、これらの町々が瓦礫に変わったのを見て、お世話になった方々のお顔が浮かびあがり、胸が張り裂ける思いです。

 東北地方は、人口容量の限界ゆえに、“再び”多大な被害をこうむりました。“再び”というのは、ブログ「平成享保」の1章で述べたように、集約農業文明によって日本列島の人口容量が3250万人の上限に達した江戸時代中期、この地方では大勢の人々が餓死しているからです。

 18世紀後半、日本列島は著しい寒冷期に入ったため、大飢饉が連続して発生しました。1755年の宝暦の飢饉、74年の安永の飢饉、82~87年の天明の飢饉などは、いずれも夏季の気温低下による冷害でした。

 餓死者の数は、宝暦の飢饉では盛岡藩が約5万人、仙台藩が約3万人、天明の飢饉では仙台藩が約7万人、弘前藩が約8万人、盛岡藩が約4万人、八戸藩が約3万人と推計されています。弘前藩では農民の3分の1が死亡したといわれています。

 当時の集約農業技術は、粗放農業技術に比べてかなり高度化しており、通常の気候不順には十分に耐えられる水準にありました。だが、もともと亜熱帯性の植物である稲を全国、とりわけ東北地方にまで普及させていましたから、気候のよい時はともかくも、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。ここにも集約農業の限界が露呈されています。

 今回の大震災でも、高度な工業技術によって高密度の居住環境を保証したはずの都市づくりが、数回の津波でもろくも破壊され、多数の死者を出しました。首都圏の電力を支えてきた、最先端技術による原子力発電所が、意外にも破壊され、多数の避難民を生み出しています。

 最先端の科学技術を応用しているにもかかわらず、東北地方の自然条件では、平常時ならともかくも、大規模な地震や津波が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。ここにも科学技術=加工貿易文明の限界が露呈しています。

 こうした意味で、東北地方は、人口容量の限界化という実態を広く認識させる役割を、再び担わされることになりました。

 人口減少という現象を、人口問題だけで考えるのは間違いではないでしょうか。その背後には、人口容量の限界化、つまり科学技術文明、加工貿易文明による日本列島の利用が限界にきているという実態を、もっと強く認識すべきだと思います。
(2011年4月5日・古田隆彦)

なぜ海際の低地に町を造ったのか?

 三陸海岸を走ると、あちこちで津波の記録碑に遭遇します。ここまで波が来たという警告碑や被災者の慰霊碑が、道路脇や山際に現れます。津波の被害に敏感な地域として、郷土の記憶が幾重にも蓄えられています。

 今回の大震災に際しても、高地に設けた住居や避難場所によって、被害を避けたケースが幾つか報告されています。宮古市重茂半島姉吉地区の石碑「ここより下に家を建てるな」や、大船渡市綾里白浜集落の「昭和三陸津波の到達点より高い場所に家を建てよ」という教訓が、被害を最小限に抑えた、とマスメディアが報道しています。

 だが、こうした遺訓が適切に活かされたかといえば、ほんの一部の事例にすぎません。この地域の都市の大半は、海に面して造られており、それがゆえに大津波に飲み込まれました。

 なぜ私たちは遺訓を活かせなかったのでしょう。危険と知りつつも、なぜ海際の低地に町を造ってしまったのでしょう。東北人は、いな日本人は、なぜ先人の記憶を活かせなかったのか、これは災害対応という次元を超えて、私たち日本人の文化の問題だ、と思います。

 1972年のことですから、40年近く前になります。ローマのTermini駅から4時間ほど特急列車に乗って、イタリア半島を横断し、ちょうど裏側のVasto駅に着いたのは午後も遅い時間でした。

 初夏の太陽はまだ高く、低いプラットフォームに降り立つと、白い国道を隔てて、アドリア海が鮮やかなコバルトブルーに輝いていました。簡素な駅舎を出て、まず驚いたのは、駅前にまったく町がなかったことです。レストランはもとより、商店やホテルなども、まったくありません。



 出迎えてくれた市役所職員に車に誘導され、つづれ折の坂道を15分ほど登り、石造りの城門をくぐると、ようやく市街地が現れました。2~3階建てのカラフルな建物が並び、バールや商店などが続いています。車は広い道路を何度か曲がったあと、古い城郭を廻りこんで、3階建ての市庁舎に着きました。

 応接室に通されて、ふと窓の外に眼をやると、潅木に覆われた崖の下に緑の平地が広がり、道路と鉄道を隔てて、海水浴場(Marina di Vasto)の建屋が垣間見え、その向こうに鈍く水平線がのびていました。Vasto市は海抜150メートルの丘陵地にぐるりと城壁を設け、その内側に人口3万人の市街地が広がる町でした。

 助役と挨拶を交わした後、最初に感じた疑問をまっさきに尋ねました。「どうして、こんな高いところに町があるのですか? 不便ではありませんか?」

 しばらく考えた後、朴訥そうな助役は低い声で答えました。イタリア語から英語への通訳を介していましたから、正しく聞き取れた、自信はありません。多分、次のようなものだった、と記憶しています。「海防です。海からは、波と敵が襲ってきます。この町の先人たちは、それらから市民を守るために、丘陵地に城壁都市を造ったのです」

 考えてみれば、地中海ではしばしば津波が起こっています。古くは紀元前17世紀、ミノア噴火による大津波が、アトランティス大陸を水没させたとか、クレタ島のミノア文明を滅ぼしたという伝説があります。西暦365年の大津波は、エジプトのアレクサンドリアを壊滅させ、アドリア海沿岸のクロアチアの都市、ドゥブロブニクにも及んで、多くの人々を飲み込んだようです。1303年にも、地中海東部を大津波が襲っています。

 外敵の襲来も頻繁でした。5世紀以降、この地方は東ローマ帝国やゲルマニアの諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受けてきました。その後も、諸外国を後ろ盾にした受けた都市国家が乱立し、400~500年の間、交戦を続けています。

 このため、アドリア海沿岸の古都市は、津波や外敵に常に気を配ってきました。それが、便利ではあるが危険の多い海際を避けて、海抜数十メートル以上の丘陵地に城砦都市を建造することになった理由なのでしょう。

 東北人も津波には十分に注意していたと思います。だが、外敵の侵入は経験していません。蝦夷の人々も、大和人との攻防は内陸でした。この違いが、丘陵都市という選択をためらわせた、最大の要因ではなかったのか、と考えます。

 長い歴史のなかで、幸いにも外敵の侵入を経験しなかったこと、それが日本人に先人の遺訓を活かせなかった理由となった。もしそうだとすれば、私たちの文化や危機意識を、根本から見直すことが求められるでしょう。
(2011年4月6日・古田隆彦)

コンデンス・シティーをめざせ!

 津波被災地の復興策として、コンパクト・シティーが取りざたされています。丘陵地にコンパクトな市街地を造り、そこから海浜部の港や漁業施設に働きに出る、というものです。町を低地から高地に移し、安全性を優先するという発想は、それなりに頷けます。

 だが、コンパクト・シティーで本当にいいのでしょうか。コンパクト・シティーのモデル都市・青森市の場合、もし陸奥湾を大津波が襲ったとしたら、都心部は壊滅状態になるでしょう。中心部に諸機能を集めていたがゆえに、被害はいっそう拡大されることになります。

 私は以前から、都市学者の多くが賛同する「コンパクト・シティー」に疑問を呈してきました。詳しくは拙著『増子・中年化社会のマーケティング』で述べていますが、本質的な次元で、この発想にはかなり疑問があります。

       


 第1に、それが前提にしている「サステナブル社会」や「静止人口社会」と同様、自然界の摂理を超えた、極めて観念的な目標です。第2に従来の膨大な集積を充分に活用するという、投資的な視点に欠けています。第3に財政が逼迫する中で、都心部への再開発投資は多大な負担を招く怖れがあります。そして第4に「コンパクト」という言葉につきまとう「簡便さ」や「簡略さ」、さらにいえば「軽薄さ」というイメージは、成熟化をめざす人口減少社会にはふさわしくない、と思います。

 そこで、筆者は「コンパクト・シティー」に代えて、「コンデンス・シティー」を提案してきました。コンデンスが意味するのは、「拡大した人口容量を減っていく人口で徹底的に活用する」という理念です。都市計画に沿っていえば、「これまでに拡大した都市域を、減っていく人口で限りなく活用し、1人当たりの利用空間をさらに拡大していく」ということです。

 発想の原点は、1970年代にイタリアで関わった、アドリア海沿岸の都市計画にあります。再開発プランの立案に参加して、最も感心したことは、ヨーロッパの都市の原型である、城壁で囲まれた都市域の「重層性」や「連携性」でした。

 行政的には、城壁の内外で権利と義務を明確に定め、内側の住民については手厚い保護を与える代わりに、厳しい責任を負わせるという、伝統的な「市民」観が今もなお継承されていました。

 都市管理の面では、かつての王宮を市役所に、古い教会を公会堂に改造するなど、過去の建造物の外観や構造を残しつつ、現在の目的に合わせて、徹底的に再利用するという方針が定着していました。また隣接都市とは、丘陵の尾根を走る道路で、万里の長城のように繋がっており、日常あるいは緊急時の連携・協力関係が形成されていました。

 以上のようなしくみによって、城壁都市は人権と歴史の重層性を獲得し、変わりゆく時代に対し、一定の批判と抵抗を示しながらも、緩やかに適応していくことを可能にしました。こうした発想こそ、現代日本の近視眼的な都市造りにもっと応用すべきではないか、と今さらながら思います。

 コンデンス・シティーが、そのまま被災地の復興に適応できるとは思いません。だが、単純なコンパクト・シティーより、ずっとましだと思います。海浜部の町造りを止めて、丘陵地に新都市を造るというのなら、中心部のメイン市街地と周辺部の市街地がうまく連携するしくみを考えるべきでしょう。
(2011年4月8日・古田隆彦)

東北地方への基本的考え方

人口減少時代の“奥州”力(東北開発研究、2006年新春号)

少産化時代を迎えて(季刊東北学2006年冬号)

初めての人口減少?

 二〇〇四年の一億二七七〇万人をピークに、日本の人口はすでに減り始めています。「史上初めての人口減少」という報道もありますが、そんなことはありません。歴史を少し振り返ってみれば、少なくとも縄文時代晩期、平安・鎌倉期、江戸時代中期などは、人口が停滞または減少した時代でした。

 このうち、最も身近な人口減少時代は、享保期から天保期にかけての約六〇年間です。当時の人口は、一七三二年ころの約三二三〇万人から一七九二年ころの約三〇〇〇万人へ、一割ほど減っています(拙著『人口波動で未来を読む』)。

東北の人口はなぜ減ったか?

 この時期には、東北地方でも人口が激減しています。推計値のある一七二一年から一七八六年にかけて、陸奥で四八万人(約二割減)、出羽で九万人(約一割)が減りました(社会工学研究所『日本列島における人口分布の長期時系列分析』)。

 この理由として一般には、大規模な飢饉の続発で餓死者が増加したためだ、といわれています。確かに当時の気候を振り返ってみると、一七三〇年ころまで上昇していた平均気温がその後下降したため、宝暦・天明期には冷夏が相次ぎ、大飢饉が発生しています。一旦、飢饉が起これば、餓死者の増加に加えて、栄養不良による体力の低下などで、死亡者は当然急増します。

 気候不順の影響が東北で大きかったのは、いうまでもなく緯度が高い上、夏場に太平洋から冷湿なヤマセが吹き寄せ、冷夏になることが多い、という地理的特性のためです。だが、それだけで人口が減ったのではなく、人為的な理由が重なっています。

 なぜなら、東北の人々はこのような寒冷な地方へ、もともと東南アジアの亜熱帯性の植物である稲作を、弥生期以来、徐々に定着させてきたからです。これにより、縄文時代にはせいぜい〇・七人/k㎡程度であった人口密度が、一気に一八〇人/k㎡にまで上りました。言い換えれば、当時の稲作技術が作り出した人口容量(キャリング・キャパシティー)のほぼ上限にまで人口が増えたため、気候が安定している時には問題がなかったものの、一旦気候が悪化すると、たちまち大量の餓死者を発生させることになったのです。

 もっとも、人口減少の要因は飢饉だけではありません。もう一つ、注目すべきは、堕胎や間引き(嬰児殺し)など、人為的な人口調節が行われたことです。その背景にも、飢饉やそれに起因する貧困の拡大があげられますが、それ以上に大きかったのは、生活水準の維持志向が広がったことです。

 一般に江戸時代の出産調節方法としては、①所得水準による婚姻の制限、②女子の初婚年齢の規制、③結婚後の堕胎や間引きなどが採用されていました。これらの方法は、飢饉や凶作のために「やむなく」採用されたと思われがちですが、必ずしもそうではありません。というより、すでに獲得した生活水準を維持するため、意図的に行われたと見るべきです。

 とりわけ、堕胎や間引きについては、盛岡藩を始め全国各地の人口動態を詳しく分析したS・ハンレーとK・ヤマムラが、「飢饉に代わって、(中略)これらの村の人口が一人当たりの所得を最大化し、またそれによって生活水準を維持、改善することに結びついた慣習」である、と指摘しています(『前工業期日本の経済と人口』)。

 実際、江戸時代の出生率の推移をみると、生活水準がかなり低かった一七世紀には高く、それよりも生活水準が上がった一八~一九世紀に、逆に低下しています。その要因は、新しい子どもをとるか、生活水準を守るかの選択において、多くの人々が後者を選んだためと考えられます。元禄期の高度成長を通じて、かなり高い生活水準を経験していた人々は、その水準を維持するため、意図的に人口抑制へ向かったのです。

作動した〝人口抑制装置〟
 実をいうと、こうした人口抑制行動は、人口容量が飽和化した環境の下で、原生動物から昆虫や哺乳類まで、動物一般に共通して見られる現象です。生物学のさまざまな調査結果によると、なんらかの理由で生存環境が飽和化した際、動物たちは生殖抑制、子殺し、共食い、集団移動などで、個体数を減らす行動に出ています。これらはそれぞれの種に生得的(本能的)に組み込まれた、一種の〝人口抑制装置〟でした(拙著『凝縮社会をどう生きるか』)。

 人間もまた動物である以上、基本的にはこうした抑制装置を持っています。だが、もともと「本能が欠如した動物」(日高敏隆)とか「本能が壊れた動物」(岸田秀)といわれている人間の場合は、他の動物とやや異なり、生物的な装置に加えて、もう一つ文化的(人為的)な装置を持っています。確かに人間もまた動物ですから、人口容量の限界に陥ると、精神的・肉体的に体力が低下し、一方では精子減少、排卵減少、性交不能、不妊症、生理不順、流産・死産の増加といった生殖能力低下、他方では病気の増加、寿命低下、胎児や乳幼児の生存能力低下など、生理的対応が発生します。

 だが、こうした方法だけで、旺盛な人口増加圧力に対応することはまず不可能ですから、人間は他のさまざまな行動と同様、人口抑制でも「文化」という独自の方法を援用します。つまり、堕胎、間引き、避妊といった直接的なものや、性交禁止、結婚禁止などのタブーや慣習といった間接的な方法まで、さまざまな方法です。これらはすべて、文化によって作られた後天的・人為的な調整装置といえるものです。

少産化の真因
 人間の人口抑制装置は、生理的次元と文化的次元の二重構造になっています。とすれば、昨今の出生数減少、つまり「少産化」の要因も、基本的にはこの装置の作動ではないでしょうか。「晩婚化・非婚化」はもとより、「子育てと仕事の両立が難しい」という理由の背後には、「飽和した人口容量の下での自らの生活水準を維持しよう」という、隠れた動機が働いているのです。
 江戸中期に、稲作生産による、全国の人口容量が三二三〇万人で飽和する中、当時の人々は自らの生活水準を維持するか、それとも子どもを増やすかの選択を迫られ、結局、前者を選んで、堕胎や間引きに走りました。

 現代日本の状況も同じようなものです。一億二七七〇万人の人口容量は、工業製品を輸出して食糧・資源を輸入するという加工貿易国家の成果ですが、これが今、頭打ちになろうとしています。それが可能だったのは、一部の工業先進国が高価な工業製品を生産し、大半の発展途上国が廉価な農産品を生産する、という二〇世紀の国際構造にあります。

 ところが、二一世紀は発展途上国の多くが工業化して工業製品は供給過剰へ、逆に労働力の減少や農地の縮小で農産品は供給不足となり、「工業製品安・一次産品高」の傾向が強まっています。となると、家電や自動車を売って、大量の資源や食糧を買う、という構造自体が次第に無理になろうとしています。

 これこそ、私たちの頭上にのしかかっている人口容量の壁です。こうした壁に突き当たったため、現在の日本人は無意識のうちにも、晩婚化・非婚化から夫婦間の出産抑制まで、人口抑制装置を作動させて出生数を抑制し、過去の減少期と同じように人口そのものを減らしはじめているのです。

 現代日本の「人口減少」や「少産化」の背後には、江戸中期と同様、「人口容量の飽和化」が潜んでいると思われます。
(2005年12月、古田隆彦)




●2011年の主張
●2010年の主張
●2008~09の主張
●過去の主張


Copyright (C)Gendai-Shakai-Kenkyusho All Rights Reserved. TOP INDEX