起業動向事例研究2006
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現代社会研究所  RESEARCH INSTITUTE FOR CONTEMPORARY SOCIETY

独自の新商品で軽飲料市場を開拓する…友桝飲料(2006.12)

 秋口に発売された「謹製サイダァ(清酒風)」が、親子が一緒に楽しめる飲み物として〝隠れヒット商品〟となっている。薄い青色のスマートな瓶や毛書体のラベルが効いて、見た目は清酒そっくり。サイダーの味は強めの炭酸でさわやかさが強調されている。二八五ミリリットル入りでオープン価格。

 この飲料を発売したのは、佐賀県小城市一〇〇年以上も続く飲料メーカー、友桝(ともます)飲料。友田諭社長は、薬品商社を経て二〇〇〇年に二五歳で四代目に就任したが、大手メーカーとの競争激化で、自社ブランド品の販売に限界を感じた。

 対応策に悩んでいた折、たまたま福岡市のもんじゃ焼き店から、子ども向けビール飲料の開発を依頼された。いろいろ工夫をして、〇三年末に「こどもびいる」と名づけ、同店で限定発売したところ、子どもはもとより若い女性の間で大評判となった。

そこで、〇四年から飲食店や旅館向けに限定発売すると、あっという間に月産は二〇〇〇本を超えた。その後も口コミやインターネットで人気が高まり、同年末には二万本、〇五年末には二〇万本に急伸し、以後はこのラインを保っている。

 貴重な経験を活かして、友田社長は地域商品のOEM(相手先ブランド製造)生産に新たな道を見出した。同社のような少量生産体制は、効率面ではとても大手メーカーにかなわないが、観光協会や飲食店といった限定商品の製造を請け負うには最適の規模。少量ロットで開発・製造を引き受けても、十分採算がなりたつ。この利点を活かして、各地から依頼がくると、土地の歴史や風土を詳しく調べたうえ、原料の果汁なども産地直送の搾りたてにこだわった。

その結果、今年の夏には、宮崎特産の日向夏みかんを使った「地サイダー」、外国人避暑地として栄えた雲仙の史実にちなむ「温泉(うんぜん)レモネード」、福岡市西区能古島のカフェ向けの「能古島サイダー」など、地域の特産や歴史にちなんだ「地サイダー」などを次々に誕生させた。

 他方、自社ブランドとしても、ユニークな新商品にこだわり、今年は「こどもびいるライト」や「謹製サイダァ(清酒風)」を開発。これらの商品は、スーパーやディスカウント店では売らず、東京や福岡の一部の百貨店だけに卸している。それ以外は、全国約三〇〇店の飲食店かホームページでのネット販売でしか手に入らない。このため、どこにあるのか、ユーザーが自分で探し出す〝希少性〟もまたヒット要因になっている。

 今後の展開について、友田社長は「お客様がつい買いたくなるような絶対に面白い商品、大手メーカーでは絶対に作れない商品などを、次々に開発できる会社をめざします」と語っているが、その経営戦略には老舗の伝統を時代の変化に適応させていく、確かな手ごたえが感じられる。


部品メーカーからメタルアートへ進出する…戸畑ターレット工作所(2006.11)

九月上旬、東京ビッグサイトで開催された「東京インターナショナル・ギフト・ショー」の新商品コンテストで、組立式のロボット・オブジェ「ロボルト」が準大賞に輝いた。

アルミ製のネジやボルトを七〇本以上組み合わせたもので、高さ一三~二八センチ。シルバーカラーの、盾と剣を構えたデザインなど四種類。オプションのパーツを追加すれば、オリジナルロボットも製作できる。価格は六三〇〇円(税込)~で、一〇月から通信販売サイトや全国の雑貨店で販売している。

「ロボルト」を開発したのは、北九州市戸畑区の金属部品メーカー、戸畑ターレット工作所(松本敏生社長)。一九六二年に衛生陶器メーカーの下請け企業としてスタートした同社は、八〇年代以降、住宅着工戸数の頭打ちに対処して、電力機器や医療器具分野にも進出してきたが、いずれも部品や素材のため、その高度な技術力にも関わらず、知名度は低かった。

そこで、部品メーカーからの脱皮をめざして、二〇〇四年から自社製品メタルグッズの試作に挑戦。社員がデザインを手がけ、水栓金具を作る職人の技を生かして、〇五年に最初のオリジナル製品「幸福郎」を製作した。フクロウの置物で、記念日や結婚式の引き出物用に二000円(税込)で発売。これが好評だったため、続いて招き猫、カエル、フグ、トンボなどの縁起物キャラクターの置物も製作し、同社のホームページや、北九州市内のデパート、博物館のミュージアムショップなどで「鉄都・北九州の土産物」として販売してきた。売り上げも順調に伸びたが、最大の成果は自社製品の開発・販売で、社員のモチベーションや企業イメージが一気に上がったことだ。

もっとも、初めての消費財であったため、品質の高さは評価されたが、欠点も見えてきた。この分野のユーザーからは、見て楽しむだけでなく、扱って楽しめるモノを求める声が高い。どうすべきか、と模索していたところへ、今年の五月、北九州市の産学連携課から、『ロボカップ・ジャパンオープン・二〇〇六北九州』の上位入賞者の副賞として、ロボット・オブジェを打診された。

が、予算が少なかったため、苦肉の策として、既製の部品を改造したり低コストの素材を利用して、ドライバー一本で組立・解体ができる「ロボルト」を開発し提供したところ、モノづくりに興味のある小中学生に大好評で迎えられた。それならと、得意の金属部品を応用して、さまざまなモノが作り出せる商品を思いつき、「メタルブロック」という名称で商品化することにした。

その第一弾が「ロボルトシリーズ」。今後は、若者に加えて、中高年が手軽に創作できる「メタルアート」商品へ育て上げていく予定だ。新戦略の展開で、同社では二〇一一年までに消費財部門の売り上げを五%にあげる目標を掲げている。


一万円均一のオーダーカーテンで急成長する…フィール(2006.10)

 「オーダーカーテンは高い」という常識を覆し、一万円の均一価格で急成長をしている繁盛店が東京の御徒町にある。

この店「feel インテリア館」では、一窓分二枚組(巾二mまで×丈二・四mまで)が一万五〇〇円(税込)。生地のグレードではメーカー品の八割引で、縫製のレベルもブランド品と遜色ない。通常、新築の一軒家でカーテンを全て新調すると、五〇~六〇万円かかるが、この店だと二〇万円以下で済むから、広告・宣伝は皆無にも関わらず、ユーザー間の口コミで、商圏は東京全域から埼玉・千葉・神奈川に広がり、さらには長野にまで伸びているという。

 その結果、開店二年めにして、月間売り上げ額はすでに約三〇〇〇万円を超えた。同業の同規模店の売り上げは平均八〇〇万円程度だから、オーダーカーテン専門店としてはトップクラスに入る。

 同店を経営する㈲フィールの飯野修一社長は、大学を卒業後、家業のインテリア問屋に入社、営業を担当しながら、起業家養成スクールで新しいビジネスモデルを考え出し、二〇〇四年に同社を設立。

カーテンの流通は通常「織物工場→商社→メーカー→代理店→小売店→顧客」という経路だが、オーダー品だと、各ステップでマージンが積みあがって、末端価格がかなり高くなる。この矛盾に目をつけた飯野社長は、幾つかの改善策を打った。

第一に大半の商品を、顧客の注文後に生地生産元へ直接発注し、中途在庫を一切持たない仕組みを作った。第二に無用なブランドロイヤリティーをカットするため、全生産元に全ての商品を「同一仕様、同一価格」で納入してもらう約束を取り付けた。この条件で現在、八社を確保している。

第三は、多くのカーテン屋が行っている「無料出張採寸」をやめ、顧客に自ら採寸してもらうようにした。その代わり、来店客や電話で問い合わせた客に、カーテン採寸用のメジャーを無料で提供し、素人でも失敗なく採寸できる仕組みを作った。

第四は、店員が顧客宅へ出向かなくても、的確にカーテン選びができるシミュレーションシステムを店内に導入した。顧客が自宅の床、壁、窓などを写した写真を持ってくれば、プロジェクターで部屋の様子を擬似的に再現し、実物のカーテンサンプルを吊り下げて、イメージに合ったカーテンを、スタッフと一緒に選ぶことができる。

こうした斬新なビジネスモデルを次々に開発したことで、どの柄どの生地を選んでも一万円で提供できるようになった。

「何もない部屋を、自分で選んだカーテンでマイルームに変えよう」という、独自の哲学を持つ飯野社長は「単にカーテンを売るのではなく、潤いのあるライフスタイルを提供していく店をめざしますよ」と、今後の抱負を語っている。


必需〝心〟で世界市場をめざす…ほんやら堂(2006.09)

「生活には必要でないが、大切なモノ」をめざして、次々にヒット商品を創り出している雑貨ベンチャーがある。群馬県高崎市のほんやら堂(藤永辰美代表)だ。

同社が二〇〇一年に発売した抱き枕「なまけたろう」は、二〇~三〇代の女性たちの支持を受け、東急ハンズなど有名雑貨店で大ヒット。五年たった今でも、ファンのホームページが生まれたり絵本も発売されるなど、根強い人気が続いている。ヒットの理由は二つの〝逆転〟。一つはキャラクター市場の中心である子どもを外して、パソコン業務などで疲れたOL層向けに、昼寝用の枕やアイピローに使えるリラクゼーショングッズとして売り出した。もう一つは、キャラクター商品の常道であるストーリー性をあえて排し、自分の思いを枕に投影できるようにしたことだ。

 広島県出身の藤永代表は大学を卒業後、軽井沢や苗場で雑貨店を経営。八六年にオリジナル商品を開発する「ほんやら堂」を創業、九三年に株式会社化。社名はつげ義春の作品に出てくる、新潟地方のかまくら「ほんやら洞」にちなんだ。九六年にヒノキを使った芳香・消臭剤や飲料水を浄化する木炭を商品化して、木炭ブームのきっかけを作った。

その後、「なまけたろう」に続いて、炭を飾る「ジャパニーズ・モダンCoo」(〇二年)、植物の癒しをテーマにした「インテリアグリーン」(〇三年)、眠りを誘う「おやすみ羊」やフットケア用の「5本指スリッパ」(〇四年)などを次々にヒットさせてきた。いずれもユーザーが「気持ちいい」と思う商品。

そこで、〝心〟の「ゆとり」「やすらぎ」「やさしさ」をキーワードに、快眠、入浴、パーソナルギフトの三分野へ毎年三〇〇品目の新商品を投入してきた。だが、衝動買いが主流の雑貨は足が速い。一度ヒットしても売れ行きが止まったらすぐに見切って、常に二〇〇品目を販売ラインに乗せることが必要だ。

となると、最大の課題は斬新な新商品の企画だから、半年先の需要を見極めたうえで、自前のデザイナーはもとより、外部からのアイデアも積極的に取り入れている。一番力を入れているのが地元大学との提携。〇五年から群馬県立女子大と組んで足指サポーター「ゆびぐっぱ」や「お尻の穴」を、また群馬大医学部と組んでリハビリに役立つ「介護なまけたろう」をそれぞれ商品化した。

 同社は自社設備を持たず、外部に生産を委託するファブレス企業。ほとんどの商品は中国で生産し、低価格を維持している。今後は流通にも乗り出し、オリジナル商品を直接販売する専用店舗を展開したうえ、環境や健康などを組み合わせた〝文化〟そのものを提供する、新しい業態を創り出す計画だ。

成熟社会では必需品の需要は飽和するが、必需〝心〟はますます伸びる。これに対応して、「アジアの片隅のNIPPONから、自然と共生した商品を世界へ発信しますよ」と藤永代表は雄大な構想を描いている。


 牛乳宅配を企業化して急成長する…ミルズ(2006.08)

牛乳販売店といえば、家族経営の零細業者が多く、後継者不足で廃業が進んでいるというイメージが強い。ところが、この業態を現代風に見直して、破竹の成長を続けている会社がある。新潟県長岡市に本社をおくミルズ(林征司社長)だ。

同社は牛乳宅配へ新規に参入して、わずか六年で新潟県一三店、栃木県三店、東京都二店の合計一八店舗を展開しており、二〇〇五年一二月期の売り上げは七億三〇〇〇万円。今年から来年にかけて九州地方や関東地方にさらに一〇店の新設を進めており、間もなく二八店舗の売り上げ総額は一〇億円の大台へ達する見込みだ。

林社長は、一九九四年に同社を設立して鮮魚の移動販売業を行ってきたが、九〇年代中ごろから長寿化の進展で宅配牛乳が伸び始めたことに気づいた。今後は団塊世代のリタイアなどで、同種の需要がさらに拡大すると読んで、二〇〇〇年から乳製品最大手、明治乳業の牛乳・乳製品の宅配を開始した。

成功の要因は、従来の牛乳宅配業者とはまったく逆のサービスを展開する〝逆転〟の発想。まず第一は配達時間を朝から昼間に変更。顧客層の中心である高齢者には必ず会話を交わして商品を手渡す。第二は配達回数を毎日から週二日に変更。冷蔵庫の普及で毎日配達する必要性は薄れている。第三に拡販方式を「顧客からの注文待ち」から「セールスによる顧客開拓」へ転換。全社員九二人のうち約二割を営業マンにして、一軒一軒を廻り契約を広げる。第四はオーダーのシステム化。本社内にコールセンターを設け、常時四人が待機して注文や顧客情報を一括管理する。

第五は、企業形態を「アルバイト中心の個人事業」から「正社員による企業方式」に変更し、現代的な宅配ビジネスをめざす。第六は社員の意識改革。「単なる使用人」を脱皮し、「経営への参加者」という意識を高めるため、教育・研修制度を充実させ、権限移譲や独立支援も積極的に推進している。

こうした大胆な経営革新で、牛乳宅配業でも確実に収益の上がるビジネスモデルを確立し、二万件近い顧客の獲得に成功した。この顧客層では五〇代以上が多く、解約率は月四%にすぎないという。さらに最近では、顧客からの要望に応じて、パン、米、しょうゆ、生活雑貨なども、牛乳と一緒に宅配しているため、総売り上げに占める牛乳の比率は八五%に下がっている。

人口減少市場では、長寿化の進展で宅配サービスからコミュニケーションサービスまで、従来と異なる生活需要が噴出している。こうした変化を敏感にとらえれば、新たなビジネスチャンスはますます広がっていく。

「全国に約一万店ある牛乳宅配専業店の廃業分を取り込んで販売網を広げる一方、扱い商品も介護・健康器具などに広げて、二〇一〇年の売り上げを二五億円に拡大、同年の株式公開をめざします」と、林社長は今後の目標を大きく掲げている。


新方式の屋台村で市街地を活性化させた・・・北の起業広場協同組合(2006.07)

五月下旬、北海道帯広市で「十勝産ホッキ貝フェアin北の屋台」が催され、多くの観光客がつめかけた。その日の早朝に漁協から取り寄せた新鮮なホッキ貝を、「北の屋台」加盟の一八店がそれぞれ工夫をこらして、炊き込みご飯、くし揚げ、カレーラーメン、イタリアンしゃぶしゃぶなどに仕立て上げ、遠来の客層にも大好評だった。

「北の屋台」は「北の起業広場協同組合」が運営する屋台村。一六〇坪の土地に一店舗三坪の二〇区画が用意されており、小料理、ラーメン、ギョーザ、ワイン、チーズと多彩な味が楽しめる。夏場には二万人を超える客がおしかけ、年商は三億円を超えている。

この村の実現に中心的な役割を果たしたのが坂本ビル社長の坂本和昭さん。一九九二年から同社や坂本商事の社長を務めているが、九六年に帯広青年会議所のメンバーとして「十勝環境ラボラトリー」を設立。九九年までに国内外の「屋台」を調査し、帯広商工会議所の「北の屋台ネット委員会」へ発展させた。

屋台には、行政や警察が管轄する道路法・道路交通法・公園法や、保健所が管轄する食品衛生法などの法律上の制約、一代限り営業権による新規参入の排除、寒冷地での冬の営業問題など、大きな壁があった。が、持ち前の熱意で全てを突破し、法律に完全に適合した、十勝型オリジナル屋台を完成させた。

この画期的な方式では、厨房部分を固定化し、その前方に移動式の屋台をドッキングさせた。民有地を使用して、上下水道、電気、ガスを完備しているから、一般食堂と同じようになま物や冷たいものも提供できる。

 二〇〇〇年二月、「北の起業広場協同組合」を設立し、坂本さんは専務理事に就任。市場の跡地で駐車場になっていた場所に、〇一年七月、「北の屋台」村をオープンさせた。

中心コンセプトは「ひと」。「便利さ」を追求するあまり、「人間性」や「コミュ二ケーション」能力を失った現代人に、「こころ」を取り戻させることだ。屋台は狭くて寒くて不便だが、店主の人柄、隣に座った見ず知らずの他人とのふれあいで「こころ」が温まる。

もう一つのコンセプトは起業活動の推進。屋台は商いの原点だが最終目標ではない。そこで、契約期間を三年に区切り、店主にはその間に顧客を獲得し、ノウハウを習得し、客の嗜好をつかみ、さらには資金も貯めてもらう。三年で屋台を卒業したら、市内の空き店舗に移って独立し、商売をもっと大きくしてもらう。これができれば、寂れていく中心街の再生にも大きく貢献できる。

ユニークな活動が認められて、坂本専務は〇五年、国土交通省から「観光カリスマ」に選ばれた。だがこれで満足しているわけではない。「今後は高齢者の知恵と技術を伝承する屋台教室、おふくろの味や料理法を教える屋台、観光客が得意料理を披露する〝屋台オヤジ体験ツアー〟などを次々に展開していきますよ」と、斬新な企画を温めている。


国内初の監視ロボットを商品化した…ロイヤルセキュリティ(2006.06)

映像や音声を生中継で遠隔地に伝える監視ロボットが、国内では初めて防犯や介護向けに商品化され、発売から僅か三カ月間で一五〇台を売り上げている。

「監視ロボットシステムHIT24」は、頭部に高性能カメラを備え、体内に音響・映像を処理する、最先端のサーバーを内蔵している。異常時には監視カメラとセンサーが自動的に感知して、威嚇、警報、証拠録画まで瞬時に実行してくれる。また遠隔地にいる契約者が、携帯電話やパソコンなどで室内の様子を監視できるうえ、不審者が侵入した時には、携帯電話で「何者だ。見ているぞっ!」と叫べば、そのままロボットの声となって威嚇することもできる。

価格は防犯用が三八万円から。警備員などの人件費がかからないため、低価格が実現できた。今のところ、防犯用の受注が多いが、今後は独居老人宅や福祉施設などの介護用にも普及させていく計画だ。

開発したのは、大阪市北区の防犯システムベンチャー、ロイヤルセキュリティ(志賀重典社長)。志賀社長は高校を卒業した後、大阪などで一八年間ホテルに勤めていたが、ユビキタス社会の到来を予見して独立した。きっかけは、防犯用品を買いに行った際、きちんと商品説明のできる店員がいなかったこと。「日本にはITを活用した防犯の専門サービスがまだ生まれていない」と直感し、二〇〇三年二月に同社を設立した。

最初は鍵穴のない電子ロック錠の販売から始め、〇四年秋には指紋錠を、〇五年春にはモニタリングシステムの販売を開始した。〇五年夏に至って「監視ロボットシステムHIT24」の開発に成功、秋口から販売にこぎつけた。志賀社長が外部のブレーンと連携して、七年ほど前から研究・開発を進めてきたもので、当面は販売代理店の拡大に努め、初年度三億円の売上げをめざしている。

昨秋には、大阪商工会議所が実施するベンチャー企業支援事業「EVEシステム」の第一期支援先に選定され、販路拡大の商談会やベンチャーキャピタルの紹介などの支援を受けられるようになった。そこで、防犯・防災・セキュリティー専門のポータルサイトもインターネット上に構築し、消費者への啓蒙活動も開始した。

今後の商品開発では、①遠隔検針、遠隔教育、遠隔医療、家電制御などの「便利な暮らし」、②防犯、防災、介護、情報管理などの「安全な暮らし」、③ネットワークゲーム、デジタルテレビなどの「楽しい暮らし」、④webバンキング、ネットショッピング、エネルギー管理などの「豊かな暮らし」の四つをめざしている。また経営目標として、二〇〇八年度の株式公開を計画している。

「監視ロボットシステムは、ユビキタス社会にいち早く対応した第三のメディアとして、総合的な生活支援サービスに発展させていきます」と志賀社長は抱負を語っている。


オリジナル〝個紋〟を創作する新サービス…でじまむワーカーズ(2006.05)

ワインボトルにユーザーの「にがおえ紋」を刻印した「にがおえ紋アニバーサリーボトル」が今春発売され、〝世界に一つだけの贈り物〟として注目されている。

ユーザーがeメールで顔写真を送ると、似顔絵をデフォルメした〝にがおえ紋〟を、サンドブラスト加工でボトルに刻印し、中身の酒とともに宅配便で届けてくれる。ブライダル、母の日・父の日、バレンタインデー、結婚記念日、敬老の日、就職・栄転・栄進などのプレゼントに最適で、贈られた人には絶対に忘れられない一品となる。お酒はワイン、焼酎、日本酒の中から一つ選び、価格はどれでも一万五〇〇〇円(送料、消費税、包装料込み)。同じ紋章を使う場合は、二本目以降は一本につき五〇〇〇円。

この商品を発売したのは、滋賀県草津市のベンチャー企業「でじまむワーカーズ」(寺本哲子社長)。寺本社長は一九九六年、 インターネットを通じて、家にいながら電子メールの交換やホームページの作成を楽しむ母親サークル「でじまむ」を結成。「子育て中でも社会参加」を合い言葉に、インターネットカフェめぐり、勉強会、セミナー企画などの社会活動を展開してきた。これが発展して、九七年、滋賀県の女性向けフリーペーパー「びぃめ~る」を発行する〝びぃめ~る企画室〟を開設。さらに九九年には、在宅の母親たちがホームページ作成代行、サイト運営、翻訳、プログラム開発、執筆などを請け負うプロフェッショナル集団として、同社を設立した。

二〇〇四年から、個人用ロゴマークの作成サービス「うちのこ紋」を開始。「うち」だけの「個紋」という意味だ。ユーザーの注文に応じたオリジナル紋を制作し、データをCDで返送する。このCDをホームセンターなどに持ち込めば、印鑑、シール、名刺などにオリジナル紋の入った自分だけのグッズを作ることができる。また希望すれば、Tシャツ、タオル、マグカップなどへの刻印も、同社が取り次ぐ。制作料金は五万二五〇〇円(税込み)とかなり高価だが、「個紋」としてマスメディアに取り上げられた結果、二〇~三〇代のユーザーから注文が急増している。

日本では伝統的に血統や一族のつながりを示す家紋が用いられてきたが、家意識が希薄になった昨今ではとかく忘れがち。しかし、外国の映画やデザイナーに、家紋の持つデザイン性の高さが再評価されたことから、若者たちの間では、自分だけのオリジナリティーを確認するものとして見直されている。

とりわけ「インターネットの普及で自己表現の場が増えてきたせいか、究極のマイブランドである個紋を他人に見せて、自分らしさを理解してもらおう、という心理が強まっている」と寺本社長は分析する。

今回開始した「にがおえ紋アニバーサリーボトル」は、個紋サービスの普及版。これで個紋に興味を持つ人が増えれば、「うちのこ紋」の拡販に役立つと考えている。


ユニークな特許商品で陶磁器業界を革新する…アサヒ陶研(2006.04)

電子レンジで温めるだけで料理や飲み物が簡単に保温できる、有田焼のプレートが登場し、業界の注目を集めている。長崎県波佐見町の陶磁器ベンチャー、アサヒ陶研(松尾俊三社長)が、佐賀県窯業技術センターと共同開発したもので、現在、特許を出願中だ。

この新商品「保温革命ほっとっと!」は、電子レンジで一、二分温めると、高温が三〇分ほど持続し、上にのせた料理や飲み物が保温できる。通常は電子レンジに反応しない陶磁器の粘土に、レンジのマイクロ波を吸収する物質を混ぜ合わせるという新技術で実現できた。円形のプレートは、直径二〇㌢の鍋用(税込み三九九〇円)から、同五・五㌢の湯飲み用(同一四七〇円)まで四種類。昨年秋に同社のホームページで発売したが、今年から月産一万個の計画で、全国のスーパーや百貨店などでも販売を予定している。

アサヒ陶研のある長崎県波佐見町は、四〇〇年の歴史を持つ焼き物の町だが、近年は廉価な輸入品の流入で沈滞気味。これを覆そうと、日用食器メーカーを経営していた松尾社長は過去のしがらみを捨てて、二〇〇〇年に同社を設立。単価の安い中国製品などでは決してまねのできない、特許を武器にした高付加価値商品の開発メーカーをめざした。

最初の商品は、急須の中に入れる焼き物製の茶こし。小さな穴が多数開いている構造でおいしいお茶をめざしたが、さほど売れなかった。そこで、この技術を発展させて、ペーパーフィルターのいらないコーヒードリップ装置「セラエコフィルター」を〇四年春に販売。独自のろ過技術の開発で、濃さの調節が自在にできるうえ、水洗いすれば何回でも使える。有田と波佐見の陶器市で税込四八〇〇円で発売したところ、たちまち六〇〇個が売れた。今でも月間五〇〇〇個が売れている。

続いて〇五年春には、炊飯器に入れてご飯をおいしく炊く「ふっくらご飯」を同一二〇〇円で発売。茶碗にふたをかぶせた構造のセラミック製だが、すし屋やレストランなどに好評で、二ヵ月で二万個が売れたため、年間五〇万個へ販売計画を見直した。

さらにこの四月には、電子レンジで一〇分以内にご飯が炊ける「レンジの達人」一合炊きを同四九三五円で発売する。四五分もかかった、従来のレンジ用陶器製に対し、お湯でといでお湯で炊き上げるという新方式で、短時においしいご飯が炊きあがる。

相次ぐ新商品のヒットで、売り上げも順調に伸びてきた。この延長線上で松尾社長は、廃業した窯元を買い取り、全国から陶芸家志望の若者や工業デザイナーの卵を集めて、技術指導や商品開発を試みたい、という大きな夢を描いている。彼らの生み出す、斬新なアイデアが、地元の陶磁器メーカーに浸透していけば、焼き物の町が再生するチャンスになる、との思いからだ。「昔から伝統に新しい技術と発想が加われば、必ず生き残れますよ」と松尾社長は誇らかに語っている。


特注トイレットペーパーで新市場を開拓する…ツユキ紙工(2006.03)

トイレの中を一瞬の間に遊び場や勉強部屋に変えてしまう、斬新なトイレットペーパーが登場し、消費市場をにぎわしている。

「一生で最も世話になる小部屋」「オバサンに男子トイレでせかされる」といった川柳が書かれたものや、約七〇センチの間に青インクで「星の一生」が描かれたものなどが人気だ。前者はTOTO出版が公募した川柳の中から優秀作二〇句を選んで印刷したもので一個三五〇円。全国の大手書店で販売している。後者は天文学の研究グループが企画したもので一個二六二円。日本科学未来館のミュージアムショップなどで売っている。

これらの商品は、再生紙一〇〇%のロール上の、幅八・5センチ、長さ七〇センチのスペースに発注した文字やイラストを、肌に無害なインキで印刷したもの。基本カラーは青とピンクだが、別の色にすることもできる。

製作を受託しているのは静岡県富士市のツユキ紙工(露木道男社長)。一九七〇年に設立された同社は、九〇年から印刷機を導入、「たれぱんだ」「ゴー!ゴー!コニーちゃん!」など、人気キャラクターを印刷したトイレットペーパーを発売してきた。絵柄の楽しい商品は発売当時から評判をよび、「特注品を作ってほしい」と要望が相次いだものの、採算が合わず見送ってきた。

 転機になったのは二〇〇一年。それまでは、大きなロール状の原紙を印刷機にかけてから巻き直し、一個ごとに分断して製品化していたのを、原紙を印刷機に通した後、すぐに小分けするようにした。この方式だと、原紙にすべて印刷しなくてもすむから、少量の注文に応えられる。数万個単位でないと受注しない大手に対し、五〇〇〇個から受注できるようになった。もっとも、当初の注文は二か月に一件程度だったという。

そこで、さらに工程を改良し、〇三年三月から一〇〇個単位で受けるようにした。これで一気に顧客層が広がり、さまざまなアイデアがよせられるようになった。それがまた展示会や口コミで評判となり、現在では週一件のペースで注文がくる。

ユーザーの九割は企業や個人商店で、店舗の記念品、商品の宣伝用、ノベルティーから、若手お笑い芸人の似顔絵入りや商店街の広告入り、宇都宮の餃子豆知識まで…。個人ユーザーからは、披露宴の引き出物用に新郎新婦の似顔絵がきた。最近では、携帯で簡単にアクセスできるQRコード入りまでくる。

価格は一〇〇個までが一一万二五〇〇円(税抜き)、五〇〇個までが一三万六〇〇〇円(同)。量が増えるほど単価が下がり、一〇〇個では一ロール一一二五円だが、五〇〇個では同二七二円。五〇円前後が一般的な市場で、この価格が安いと思えるだけのネウチをユーザーに認めさせることが勝負だ。

大手企業は意外に発想の変換が不得意だから、この分野では「オンリーワンの企業ですよ」と露木社長は胸を張っている。


下請からオリジナル時計メーカーへ脱皮…ミノリ(2006.02)

旧陸海軍の軍用腕時計が、ウオッチマニアの間で、密かにヒットしている。

きっかけは二〇〇四年春に公開された映画「零 ゼロ」。撮影に提供された軍用時計は、太平洋戦争当時、戦艦大和や零式艦上戦闘機(ゼロ戦)などで、旧日本軍将兵が愛用していたものの復刻版。セイコー時計博物館にわずかに残っていた腕時計を忠実に再現した。

日本製のクォーツ・ムーヴメントを採用、ケースは真鍮でクリスタルガラス、黒の牛革ベルトをつけ、直径約三〇ミリで厚さは約一〇ミリ、約四〇g。陸軍用はホワイト・ブラウン、海軍用はホワイト・ブラックで、価格はともに一八、九〇〇円(税・送料込)。

この時計を製造したのは東京都足立区のオリジナルウオッチメーカー、ミノリ(斉藤亘弘代表)。一九四七年に大手腕時計メーカーの下請としてスタートし、七五年に株式会社に改組してケース(外枠)専業を続けてきたが、八〇年代に入ると、ウオッチ製造の大半が海外にシフトしたため、親会社から切り捨てられ、注文が激減した。

そこで、永年培った技術を活かして、オリジナル商品の企画・販売へ転進した。最初に販売したのは、自社ブランド「ALOES」のアナログ式時計付ベルト。ズボン用ベルトのバックルに小型時計を組み込んだもので、「腕時計を外して、この時計付ベルトをすれば幸運が舞い込む」を売り物に発売したところ、ゴルフコンペ、創立記念、新築、誕生日の記念品、贈り物用などに好評で、とりわけゴルフ愛好家の間で伸びた。価格は一四、七〇〇円(同上)。

これに自信を得て、八五年には「御本尊御守腕時計」を発売。文字盤には京都の仏師、松久宗琳師の描く、干支毎の御本尊画を金線画で表現、裏蓋には神代からの身守り神文字を彫刻した。いつも身につけておれば、御利益で安全かつ幸福な日々が送れるという優れもの。価格は二七、三〇〇円(同上)。

続いて八七年からは「鉄道開通記念懐中時計」を出している。明治五年(一八七二)、の新橋駅開業を記念したもので、同年には一一五周年記念、九七年には一二五周年記念、そして二〇〇二年には一三〇年記念をそれぞれ発売。一三〇年版の表蓋には一号機関車の正面、裏蓋には七〇〇系のぞみとカシオペアを型打ち、文字盤にはD51蒸気機関車を表現しており、鉄道ファンや時計コレクターの間でたちまち売れ切れた。

同社は従来、通販会社や雑貨会社とタイアップして新商品を製作してきたが、インターネットの拡大で直接受注が増えてきた。中小メーカーであっても、ユニークな商品であれば、全国のマニアからのオーダーが集まるようになってきたのだ。この追い風に乗って、斎藤社長は「ハイテクでは大手にかないませんが、思い出やお守りなど、ユーザーの心に食い込める、個性豊かなオリジナル時計なら絶対負けませんよ」と意気軒昂だ。


地下足袋をファッション用品に変換した…SOU・SOU(2006.01)

通常二〇〇〇円程度で売っている地下足を、二~五倍で売るにはどうすればいいか。作業用という用途を大きくチェンジし、ファッションアイテムにしてしまえばいい。

仮定の話ではなく、すでにこれを実現したのが「SOU・SOU足袋」。形は確かに伝統的な地下足袋だが、布地は赤、青、緑とカラフル。絵柄のデザインも数字、いろは文字、水玉模様、幾何学模様など多様。素材は木綿の帆布のほか、スウェード、ネル素材なども使っている。つま先が分かれる定番タイプと、分かれていないズック靴タイプの二つがあるが、後者にも後ろを合わせる留め具「こはぜ」がついている。

斬新なアイデアが、ファッション感覚に敏感な若者にうけて、現在、月に一〇〇〇足以上が売れており、一カ月待ちの柄もあるという人気ぶり。価格は六〇〇〇~九〇〇〇円。

この商品を発売したのは、京都の商品企画会社「SOU・SOU」(若林剛之代表)。二〇〇一年、ファッションの若林、インテリアの辻村久信、テキスタイルの脇阪克二の三氏が、「日本の伝統の軸線上にあるモダンデザインをつくる」というコンセプトで設立。日本人が何気なく口にする「そう、そう」という言葉を社名にした。

設立理念の実現をめざして、最初に取り組んだのが地下足袋の再生。日本の伝統的な履物、地下足袋は「これほど機能性に優れた履物はないから、そのままの形で現代の生活に見合うように、生地や柄を変えてみよう」と思い立った。もっとも、余りにも斬新なアイデアにメーカーがとまどったため、各地の老舗や工場とねばり強く商品化を進めて、〇三年五月にようやく六種類の足袋を完成。同年秋にニューヨークのギャラリーで展示会を開いたところ、四日間で約二〇〇足を売り上げた。国内では作業用の印象が強かった地下足袋が、ニューヨーカーにはまったく新しい履物として認められたのだ。

現在、国内で販売されている地下足袋のほとんどは中国や東南アジアなど、海外で生産されたもの。だが、同社では「技術があってこそ伝統は守られる」と国内生産にこだわり、各地の素材産地と組んだり、熟練の職人たちに発注して生産を続けている。

地下足袋に続いて、同社では和風をテーマにしたデザインの着物、作務衣(さむえ)、小物、インテリア雑貨なども制作し、京都市中京区の本店のほか、関西では京都、大阪の二店舗で販売している。東京にも、〇三年春にお台場の「ヴィーナスフォート」へ、〇四年秋には南青山へ、それぞれ出店した。さらに国際的にも認められて、アメリカをはじめスウェーデン、デンマーク、イタリアなどのセレクトショップに輸出している。

「私たちの商品には、賛否いろいろな意見がありますが、一〇年たったら、時代がきっと追いついてきますよ」と、若林代表は胸を張っている。


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